日本人戦犯20人目?齋藤美夫の供述書 中國(guó)人を集団虐殺(一)
日本人戦犯20人目?齋藤美夫の供述書 中國(guó)人を集団虐殺(二)
齋藤美夫の1954年8月の供述書によると、齋藤は1890年生まれ、本籍東京都。1929年4月に関東憲兵隊(duì)長(zhǎng)春憲兵分隊(duì)長(zhǎng)に任じられ、華南日本派遣憲兵隊(duì)隊(duì)長(zhǎng)、偽満州國(guó)陸軍少將、憲兵訓(xùn)練処処長(zhǎng)などを歴任した。
重要な罪行として、以下のものが挙げられる。
1937年11月初旬、新京北、南分隊(duì)及び首都警察庁の厳重処分に付すべき中國(guó)人約30人を新京北東北方約20キロの刑場(chǎng)に押送するよう命令。途中、全員が射殺された。
1939年8月8日、「河北より石井細(xì)菌化學(xué)部隊(duì)に引渡すべき中國(guó)人九〇名を哈爾濱、及孫吳に押送」する命令を下達(dá)した。1956年6月17日の訂正?追加自供書で彼は「被押送人員三〇名は哈爾濱に下車せしめられ石井部隊(duì)の細(xì)菌化學(xué)生體実験に、孫吳に下車せしめられた被押送人員約六〇名は習(xí)志野學(xué)校(瓦斯部隊(duì))と石井部隊(duì)の協(xié)同による毒瓦斯弾効力実験特別演習(xí)の用に供せられたものなることを白濱大尉の事後報(bào)告により知りました」と記した。
1940年8月~1942年6月、広州市內(nèi)および周辺村落で約200回捜査を行い、勾留人員は約1000人、検挙人員200人に達(dá)し、うち5分の1の40人を厳重処分に付した。
1941年6月~1942年6月、「私は派遣軍憲兵隊(duì)長(zhǎng)として命令を以て約三回に亙り廣東憲兵隊(duì)をして同隊(duì)の検擧したる中國(guó)人民を『嚴(yán)重処分』として『集體屠殺(銃殺)』せしめました」「約一二〇名に達(dá)し」た。(編集NA)
「人民網(wǎng)日本語(yǔ)版」2014年7月23日
このウェブサイトの著作権は人民日?qǐng)?bào)社にあります。
掲載された記事、寫真の無(wú)斷転載を禁じます。
Tel:日本(03)3449-8257、080-5077-8156 北京 (010) 6536-8386