定年を迎えた73歳の普通の日本人の彼には、特別な身分がある--それは第2次世界大戦の戦爭(zhēng)孤児だ。彼の名は陳慶和、別名李成林、趙成林といい、日本での名前は中島幼八だ。8月10日から11日まで、中島さんは自分が育った地域である中國(guó)黒竜江省牡丹江市に戻ってきていた。彼の中國(guó)人の養(yǎng)父母の墓參りをして、當(dāng)時(shí)の恩師と同級(jí)生を見(jiàn)舞った。彼が自費(fèi)出版した回想録「この生あるはー中國(guó)殘留孤児がつづる」の冒頭のことばで次のように記している?!溉毡兢摔稀荷撙斡Hより育ての親』という諺がある。この地で私の心に浮かぶ言葉、「ありがとう!中國(guó)!」とまず言わなければならない」。新華網(wǎng)が伝えた。
1945年、日本の敗戦後、中國(guó)の東北部にいた日本の満蒙開(kāi)拓団は食料不足により生活が困窮していた。実の母親は3歳の中島さんを行商人に預(yù)け、その後、養(yǎng)父母の元へ送られた。當(dāng)時(shí)の彼は骨と皮ばかりにやせ細(xì)り、栄養(yǎng)失調(diào)によりお腹が膨張していた。養(yǎng)母の孫振琴さんは中島さんを引き取って世話をした。孫さんは中島さんのお腹をさすったり、食べ物をかみ砕いて與えたり、日夜を問(wèn)わず付きっ切りで看病したおかげで、中島さんは一命を取り留めた。その後10年のあいだ、孫さんと彼女の3人の夫が中島さんを育て上げた。中島さんが16歳になった時(shí)、帰還船に乗り日本へ帰り、実母と姉との再會(huì)を果たした。中島さんは「彼らからすれば日本人の子供なんて本來(lái)は敵國(guó)の將來(lái)を擔(dān)う世代だ。なのに彼らに保護(hù)してもらい、大人になるまで育てて貰った。これは崇高なる精神そのものだ!」と語(yǔ)る。(編集JK)
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「人民網(wǎng)日本語(yǔ)版」2015年8月13日
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