國家公文書局はは18日、公式サイトで『中國侵略日本人戦犯供述書選』(八)--日本人戦犯?上園福夫の供述書を公開した。
上園福夫の1954年8月17日の供述書によると、上園は1920年、鹿児島県生まれ。1939年に中國侵略戦爭に參加し、1945年8月に捕虜になった。重要な犯罪行為は次の通り。
1939年7月、山西省安邑県で通訳らと一緒に、農(nóng)民2人を「梯子に縛り付け水を飲ませ腹を叩き」、「更にムチで毆打し、最後には農(nóng)民の両手の親指だけを縛って吊し上げ、再び毆打」した。「そのあげく2人の被害者を衛(wèi)兵所の営倉の中に放り込み、一晩中吊し上げたまま放置し殺害した」。
1940年9月、山西省平陸県の刺殺訓(xùn)練で「兵士約40人で農(nóng)民10人を殺害した」。「私は1人の農(nóng)民を駈足刺突にて刺殺」した。
1942年12月、山東半島のある村で、約48歳の女性を見つけた。ほかの兵士1人が「日本刀で女性のひざと太ももあたりを突っつき、むりやりに陰部を開かせ暴行した。このとき、私は室內(nèi)にあった長さ約1メートルのコーリャンのわらを取り出し、陰部に突き刺し20數(shù)回かき回した」。女性はその後大量の失血で死亡した。
1943年4月、河南省臨淇付近で、「高粱畑に避難していた農(nóng)民1人を逮捕し」、周りの人に命令を下し「農(nóng)民の鼻をつまみ灰を口の中に押し込み、窒息させ殺害した」。
1944年11月、商河西南部のある村で、憲兵と一緒に農(nóng)民3人を逮捕し、穴の中に火をたき「交互に突き落とし火あぶりの拷問を行い、これを何十回と繰り返して殺害した」。
1944年6月から1945年4月まで、山東省済南で、「済南難民街に誘拐し監(jiān)禁していた中國人女性に対して15回強(qiáng)姦した」。
1945年6月、山東省海陽県のある村で、「銃を突きつけ強(qiáng)迫し、35歳位の女性1人を2回強(qiáng)姦した」。(編集LX)
「人民網(wǎng)日本語版」2015年8月20日
このウェブサイトの著作権は人民日?qǐng)?bào)社にあります。
掲載された記事、寫真の無斷転載を禁じます。
Tel:日本(03)3449-8257、080-5077-8156 北京 (010) 6536-8386