シンガポール首相府は23日、同國のリー?クアンユー元首相が病気のため同日午前3時18分にシンガポール中央病院で死去したと発表した。91歳だった。揚子晩報が伝えた。
■中國の5世代の指導者と會談、訪中は33回
リー氏は中國に対して特別な感情を抱いていた。原籍は広東省梅州で、儒家思想が身についていた。毛沢東氏から習近平氏まで5世代の中國指導者と會談し、良好な関係を保っていた。リー氏は1976年の初訪中から現(xiàn)在までの39年間に計33回訪中し、「中國人民の古くからの友人」と呼ばれた。
■「鄧小平氏は私の偶像」
1970年代、リー氏と中國との最初の接觸は慎重で注意深いものだった。だが周恩來氏が長く入院しているとの頻繁な新聞報道を目にすると、初訪中の日程を決め、周氏を見舞おうとした。だが殘念なことに、周氏はリー氏の訪問前に死去した。
1978年11月の鄧小平氏によるシンガポール訪問について、リー氏は「1978年11月、74歳と高齢で、小柄で有能、きびきびして壯健な、身長5フィート足らずの年配者が、ベージュの人民服を著て、パヤレバ空港のボーイング707から降りてきた。足取りは軽やかで、儀仗隊の観閲後、私と共に車で大統(tǒng)領府內の迎賓館へ向かった。同日午後、私たちは內閣會議室で正式な會談を行った」と振り返った。
リー氏は晩餐會で鄧氏に「もしあなたがシンガポールで生まれ、私が中國で生まれていたらどうなっていたと思いますか?私はあなたはシンガポールの指導者になっていたと斷言できます。しかしもし私が中國で生まれていたら、途中で押しのけられていた可能性が高い。道半ばまで行ければ上等だったでしょう」と語った。
リー氏はまた、シンガポールをガーデン?シティにしたことについて鄧氏から祝賀されると「私たちができたことなら、あなたがたはもっとうまくできます。私たちは土地のなかった中國南部の農(nóng)家の子孫ですが、あなたがたにはインテリも、最も傑出した人材も、詩人も、蕓術家もいる」と応じた。鄧氏はこれには答えず、ただリー氏を見つめただけで、食事を続けたという。1980年代から90年代にかけて、リー氏はほぼ毎年中國を訪れ、改革開放による発展と変化を目の當たりにしてきた。リー氏は一貫して鄧氏を政治面で偶像視しており、「私に最も深い感銘を與えた中國の開放政策の特徴は、鄧小平氏の果斷さと全力の傾注だ」と語ったことがある。
■習近平氏はマンデラ級の人物
2007年11月の訪中時の習近平氏との初対面はリー氏に深い印象を與えた?!噶暯绞悉味攘郡纤饯松瞍び∠螭蚺cえた。彼は視野が広く、問題の見方が深く鋭いが、才能と見識を少しもひけらかさない。おごそかな感覚を人に與える。これが彼の第一印象だ。私はかつて彼が受けた苦難と試練にも思いをはせた。1969年に陝西省で生産隊に編入され、一歩一歩上へと奮闘したが、不満や恨み言を言ったことがない。彼はネルソン?マンデラ級の人物であるはずだ」。
中國は正念場にあり、習氏はこうした問題の処理に力を集中するとリー氏は見ていた。
■「中國には自らのやり方がある」
リー氏は本で「中國人は5000年來、中央が強大であって初めて國家は安全となり、中央の弱さは混亂と動揺を意味すると考え続けてきた。中國人1人1人がこの點を理解しており、これは中國人の根本的原則でもある。西側の一部は中國が西側の伝統(tǒng)的意味における民主國家に変わることを望んでいるが、これは起きない。中國は13億の人口を擁する巨大國家であり、文化も歴史も西側とは異なり、中國には自らのやり方がある」と指摘した。
リー氏は「中國は目立たず強大化することを選択する。影響力が高まると、力を頼みに弱い國を虐げることはないが、同時に力をはっきりと示しもする」と考えていた。(編集NA)
「人民網(wǎng)日本語版」2015年3月23日
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