國家公文書局はは11日、公式サイトで『中國侵略日本人戦犯供述書選』第1回--日本人戦犯?杉下兼蔵の供述書を公開した。新華網(wǎng)が伝えた。
第1回の要旨に基づいた上で、杉下兼蔵の1954年11月29日の供述によれば、杉下兼蔵は1901年生まれ、日本?岐阜県出身。1932年2月に中國侵略戦爭に參加したという。
杉下が白狀した重要な犯罪行為として、以下のものが挙げられる。
1932年2月3日、「上海天楽寺の南方約8キロメートルにある某村で、中隊の命令により村全體を銃撃し、中國人民30人を殺害した事件を引き起こしたと推測される」。
1932年2月5日「中國人を敵視する心理」が生じ、「100人斬りを決定」し、「同時に、部下にもこのようにやるよう命じた」?!干虾=瓰虫?zhèn)?復(fù)旦大學(xué)の裏通りにある北街口で、私は自ら7歳ぐらいの子供を1人捉えた後、その子を石の上に置き、更に石で叩き潰して殺し、近くの川にその死體を投げ入れた」。
1932年2月19日、「陸家橋の火災(zāi)から逃げて來た6歳ぐらいの子供1人を捉えた後、その子を入り口の石の上に置き、石で叩き潰して殺し、燃えさかる家にその死體を投げ入れた」。
1932年2月25日、「上海江灣鎮(zhèn)付近の地區(qū)で、細(xì)菌を……計21箇所の井戸に投入した」。
1932年4月20日、「上海大場鎮(zhèn)の南側(cè)約1キロメートルにある陣地內(nèi)で……師団が中國人の庶民10人を仮の敵として連れてきたので、部下の第二小隊の兵士60人を使い、小銃や軽機(jī)関銃で全員射殺した」。
1937年11月7日、「楡次の北西方向にある六堡鎮(zhèn)で、私は中國人2人にお前は誰だと聞いた後、自ら拳銃で射殺した」。(編集LX)
「人民網(wǎng)日本語版」2015年8月12日
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