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2018年5月22日  
 

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四川大地震からちょうど10年 被災(zāi)地の北川県を日本の救援隊(duì)隊(duì)員が再訪

人民網(wǎng)日本語(yǔ)版 2018年05月21日15:48

2008年に四川大地震が発生して今月12日でちょうど10年目を迎えた。當(dāng)時(shí)、救援活動(dòng)に參加した日本の國(guó)際緊急援助隊(duì)(JDR)の隊(duì)員?糟谷良久さん(現(xiàn)在、日本國(guó)際協(xié)力機(jī)構(gòu)中國(guó)事務(wù)所の副所長(zhǎng))と中島康さんが同日、地震で壊滅的な被害を受けた四川省北川県の地震の遺跡や地震紀(jì)念館、新しい市街地などを訪問(wèn)した。

止まってしまった時(shí)間

10年ぶりに被災(zāi)地に立った中島さんは、「建物も、街並みも変わったが、山の形は変わっていない」と改めて自然の凄さを感じながら、「山の形を見(jiàn)れば、救援活動(dòng)を行った場(chǎng)所を見(jiàn)つけることができる」と話した。

08年5月16日、中島さんは隨行醫(yī)師として、JDRと共に壊滅的な被害を受けた青川県で救援活動(dòng)に攜わった。阪神大震災(zāi)の際に救援活動(dòng)に攜わったほか、急救センターでの勤務(wù)経験がある中島さんは、「準(zhǔn)備萬(wàn)端と思っていたが、被災(zāi)地に到著してただ茫然とするしかなかった。なぜなら大自然の破壊力は、自分の想像をはるかに超えていたからだ。破壊されてしまった街を目にし、何をすれば良いのか分からずに、ただ、呆然と立ち盡くし、醫(yī)師として何ができるのか、人として何ができるのか、突然分からなくなってしまった」と振り返る。中島さんの當(dāng)時(shí)の主な任務(wù)は隊(duì)員と災(zāi)害救助犬の健康狀況をチェックするほか、救出された被災(zāi)者の狀況を確認(rèn)することだった。しかし、実際には、食事を作ったり、トイレを設(shè)置したり、「できることは何でもした」という。

地震発生後、日本政府は中國(guó)政府の要請(qǐng)に応じて、國(guó)際協(xié)力機(jī)構(gòu)(JICA)を通じて救急隊(duì)員61人を派遣した。隊(duì)員は外務(wù)省、警察庁、消防庁、海上保安庁、JICAの職員などで構(gòu)成されていた。隊(duì)員は、地震発生後、一番初めに被災(zāi)地入りした外國(guó)の救援隊(duì)で、1949年以降、中國(guó)で救助活動(dòng)に攜わった初めての國(guó)際救援隊(duì)でもあった。

糟谷さんは當(dāng)時(shí)、救援隊(duì)が中國(guó)側(cè)と連攜をとって活動(dòng)するための調(diào)整役を擔(dān)っており、「私たちが到著した時(shí)、被災(zāi)者の生死を分けるターニングポイントと言われる『72時(shí)間の壁』は過(guò)ぎていたものの、隊(duì)員らはまだ救える命があるはずという希望を胸に抱き、あきらめていなかった」と話す。

19日に撤収するまでに、日本の救援隊(duì)は青川県と北川中學(xué)、北川県城で捜索に當(dāng)たり、合わせて15人の遺體を発見(jiàn)した。「隊(duì)員たちはお子さんたちを一人一人、大事に學(xué)校の下から出してあげて、顔を拭いてあげて、抱き上げて、出してあげた。その姿は今でも胸に焼き付いている。中國(guó)を離れて、日本に帰り、家に著いたら、涙が止まらなくなった。何でか分からないけれども、テレビをつけてまだ地震の様子が流れていて、涙が止まらなくなった」と糟谷さん。

毎年5月12日が近づくと、北川の舊市街地で崖崩れが起きた景家山では、大きな橫斷幕が掲げられている。それは、ある女性が亡くなった息子に宛てた手紙で、周囲には慰霊のための線香の煙が絶えたことは無(wú)いという。

「大きな山にとって、地球の歴史にとって、災(zāi)害は一瞬のことに過(guò)ぎないかもしれないが、子供を失った遺族の時(shí)間は、永遠(yuǎn)にそこで止まってしまい、前には進(jìn)まなくなる」と中島さん。

言葉なしでもコミュニケーション

08年に救援に參加した時(shí)に中國(guó)に初めて來(lái)た中島さんは當(dāng)時(shí)、中國(guó)語(yǔ)が全くできなかった。始めは、言葉が通じないため一人では行動(dòng)するのすら心配だったが、一杯のインスタントラーメンがその心配をかき消してくれたのだという。中島さんは、「當(dāng)時(shí)、一人で救援隊(duì)基地に殘っていた時(shí)に、勇気を出して被災(zāi)者にストーブを借りた。指でコンロを指しただけで分かってもらえ、ラーメンを作るのも手伝ってくれた。コミュニケーションに言葉はいらないのだと分かった」と振り返る。

糟谷さんによると、救援においても同様だったということで、中國(guó)側(cè)と協(xié)力して救援に當(dāng)たった時(shí)、言葉の壁は全く感じなかったという。なぜなら、救援方法は共通していたからだ。1997年から2004年にかけて、JICAは中國(guó)と日本の消防協(xié)力プロジェクトを?qū)g施したほか、北京の消防訓(xùn)練センターのメンバーを研修のために日本に招き、日本の消防庁も、救助技術(shù)をそのメンバーに指導(dǎo)していた。四川大地震の際、救援現(xiàn)場(chǎng)には、中國(guó)各地から來(lái)た救援チームがおり、その中に北京市消防局のメンバーもいた。雙方が協(xié)力して救援に當(dāng)たった際、日本側(cè)の隊(duì)員は言葉は通じないものの、救援方法は同じであることに気付いて驚き、協(xié)力は非常にスムーズだったという。「日中両國(guó)が救援の分野で技術(shù)協(xié)力をすることの価値を反映している」と糟谷さん。

今後も中國(guó)と協(xié)力して防災(zāi)活動(dòng)を

糟谷さんは、長(zhǎng)年、緊急救援活動(dòng)に攜わっており、15年には、各國(guó)の救助チームの能力を評(píng)価するIER(INSARAG External Re-Classification)を受験する國(guó)際緊急援助隊(duì)救助チームの副リーダーと訓(xùn)練責(zé)任者を務(wù)め、17年からはJICA中國(guó)事務(wù)所の副所長(zhǎng)として中國(guó)で勤務(wù)している。

北川新城區(qū)を歩いた糟谷さんは、きれいな街並みや立ち並ぶ家屋を見(jiàn)て、「中國(guó)のスピード」に驚いたという。北川県城舊址は、災(zāi)害がもたらした傷を忘れることがないよう、地震遺跡として今も保存されている。糟谷さんはこの方法に賛同を示し、「防災(zāi)意識(shí)を高めることは、中國(guó)の災(zāi)害分野において非常に大切。地震が多発する日本と異なり、中國(guó)は広く、地理的環(huán)境も場(chǎng)所によって異なる。四川の人々は、四川大地震や雅安地震を経験しているため、防災(zāi)対策の重要性をよく認(rèn)識(shí)していると思う。でも、中國(guó)全體を見(jiàn)ると、災(zāi)害は自分とは関係ないと思っている人もいるだろう。しかし、災(zāi)害が起きた時(shí)、自分は何をすべきなのか、みんなが知っているべき」との見(jiàn)方を示す。

糟谷さんによると、15年から、JICAは四川で、「減災(zāi)教育?能力建設(shè)モデルプロジェクト」を?qū)g施しており、雅安の対象となった學(xué)校102校で、防災(zāi)教育や安全訓(xùn)練を展開(kāi)し、今後は中國(guó)全土でそのプロジェクトを?qū)g施する計(jì)畫という。

その他、四川大地震が生じてからこの10年の間に、JICAは中國(guó)國(guó)家地震局や住房?城郷建設(shè)部(?。⑺拇謽I(yè)庁、中華全國(guó)婦女聯(lián)合會(huì)などと共に、地震時(shí)の緊急救援能力の強(qiáng)化、耐震性を備えた建物、被災(zāi)地の森林回復(fù)、カウンセラーの育成などの面で技術(shù)協(xié)力プロジェクトを展開(kāi)し、中國(guó)の防災(zāi)、減災(zāi)、救援能力のさらなる向上を図ってきた。糟谷さんによると、11年に東日本大地震が発生した際、中國(guó)も國(guó)際救援隊(duì)を日本に派遣した。中國(guó)と日本は隣國(guó)で、互いに支援し合うのは當(dāng)然のことだからとその理由を話す。

取材を受けた後、中島さんは東京に戻り、災(zāi)害醫(yī)療の研究を引き続き行うという。阪神大震災(zāi)が起きた當(dāng)時(shí)、まだ醫(yī)大生だった中島さんは、緊急時(shí)に仕事を任せてもらえる醫(yī)師になることを志し、急救センターの外科醫(yī)となって、JDRの隊(duì)員に申し込んだ。四川大地震後、中島さんは一人の力には限りがあると気付き、日本の國(guó)際醫(yī)療チームの訓(xùn)練マニュアルを改訂して、訓(xùn)練ガイドを製作し、関連の専門スタッフを指導(dǎo)するなど、災(zāi)害醫(yī)療に取り組んでいる。中島さんの目標(biāo)は、「病院をもっとよくし、もっと素晴らしい醫(yī)師を育成し、一人でも多くの人を救うこと」だという。(編集KN)

「人民網(wǎng)日本語(yǔ)版」2018年5月21日


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