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陝西省銅川で「陶磁の道」に思いを馳せる 耀州窯遺址博物館を訪ねて

人民網(wǎng)日本語版 2022年09月23日14:22

耀州窯は現(xiàn)在の陝西省銅川市に位置する青磁窯で、宋代「六大窯系」の一つ。宋代に最盛期を迎え、その製品は海外でも好評を博したという。中國の陶磁器はアジア諸國や東アフリカにまで輸出され、その貿(mào)易流通ルートは「陶磁の道」と呼ばれる。この道は日本へも続いていた。

■唐?宋代に栄えた耀州窯

8月初旬、「一帯一路」メディア協(xié)力フォーラムメディア取材?視察の一環(huán)で、陝西省銅川市にある耀州窯遺址博物館を訪ねた。

耀州窯遺址博物館(撮影?勝又あや子)

耀州窯は宋代「六大窯系」の一つとされる青磁窯?,F(xiàn)在の陝西省銅川市に位置している。銅川は宋代には耀州に屬しており、そのため耀州窯と呼ばれた。黃堡鎮(zhèn)を中心として、漆水の両岸に南北約5キロ、東西約2キロにわたって分布していた。唐代に始まり、五代に発展、北宋の時代に全盛期を迎えた。金代にも引き続き磁器を作り続け、元代まで続いたとされている。

耀州窯遺址博物館に展示されている窯場跡(撮影?勝又あや子)

今回訪れた耀州窯遺址博物館は、耀州窯の中心だった黃堡鎮(zhèn)の窯場跡だ。1930年代、鉄道建設(shè)工事に伴って黃堡鎮(zhèn)で大量の青磁が発見され、1950年代に入って陜西省文物管理委員會による本格的な調(diào)査がスタート。さらに、1984年から1994年にかけて、陜西省考古研究所が大規(guī)模な発掘調(diào)査を行った。その跡地は1988年に第三陣の全國重點(diǎn)文化財保護(hù)施設(shè)に指定され、2006年には耀州窯磁器製造技術(shù)が第一陣の國家級無形文化遺産に登録されている。

黃堡鎮(zhèn)の窯場跡からは唐三彩や青磁など多くの遺物が見つかっており、そのスタイルも多岐に及ぶ。唐代から元代にかけて長期にわたり磁器の生産が行われていたと考えられている。

耀州窯遺址博物館に展示されている各時代の地層(撮影?勝又あや子)

耀州窯の磁器は時代によってさまざまな特徴があるが、最もよく知られているのは宋代のオリーブグリーンの青磁だ。文様の輪郭を斜めに幅広く削る「刻花」技法と、細(xì)くひっかく「劃花」技法を使い、立體感あふれる優(yōu)雅な線を表現(xiàn)した。また、宋代中期には模様のある型を押し付ける「印花」の技法が確立され、さらに多彩な題材を表現(xiàn)することが可能となった。そして宮廷で用いられるようになり、中國全土に向けても販売され、さらには海外でも人気を博すようになったという。

耀州窯遺址博物館に展示されているオリーブグリーンの耀州窯青磁(撮影?勝又あや子)

■日本まで続いていた「陶磁の道」

中國で作られた陶磁器は、「陶磁の道」によって域外へにも運(yùn)ばれた?!干酱ㄊ澜缡沸∞o典(改訂新版)」の「陶磁の道」に関する説明によると、「陶磁器はシルクロードにおける絹とともに古くから交易の対象として世界に伝播され、その貿(mào)易ルートは『陶磁の道』と呼ばれた。9世紀(jì)以降、周辺のアジア諸國や東アフリカに輸出されて貿(mào)易流通ルートとしての『道』をつくった?,F(xiàn)在、東南アジアやインド、ペルシア灣北岸からエジプトに及ぶまで中國陶磁器の破片が多く出土しており、その道が多岐にわたっていたことが知られる」。

この「陶磁の道」は実は日本へもつながっていた。そのことを示す一例が、福岡県博多市の博多遺跡群だ。博多遺跡群は、JR博多駅の北側(cè)に南北1.6キロメートル、東西0.8キロメートルにわたって広がる遺跡群で、ここから中國産をはじめとする輸入陶磁器が多數(shù)出土している。

博多駅地下祇園方面連絡(luò)口の「博多區(qū)まちかど文化広場」に展示されている博多遺跡群の出土品(撮影?大和由美子)

博多は古代から中世にかけて日本の國際貿(mào)易の拠點(diǎn)だった。特に盛んだったのが10世紀(jì)後半から13世紀(jì)にかけての日宋貿(mào)易だ。主に金や刀剣、漆器、扇などが輸出され、織物や陶磁器、典籍、銅銭 (宋銭) などが輸入された。

博多遺跡群の出土品には耀州窯を思わせるオリーブグリーンの皿などが見られるが、龍泉窯系のもので、耀州窯ではない。ただ、宋代に海外でも評判を呼んだという耀州窯の製品が、當(dāng)時盛んだった日宋貿(mào)易で日本にも輸出されていた可能性はあるのではないか。陝西省の山間にある耀州窯遺址博物館に展示されている出土品を見ながら、ここで焼かれた磁器が海を越えて日本の博多へと運(yùn)ばれていく様子を想像するのは実に楽しい體験だった。

■現(xiàn)代に生きる耀州窯

元代に入ると耀州窯の中心は陳爐鎮(zhèn)に移り、耀州窯遺址博物館がある黃堡鎮(zhèn)の窯場は廃れてしまう。一方、陳爐鎮(zhèn)のほうは1400年にわたって窯の火が絶えず、現(xiàn)在に至っている。

陳爐鎮(zhèn)では、裝飾品やどんぶりなどを焼成する窯が今も稼働を続けている。陶蕓體験のできる施設(shè)や宿泊施設(shè)などもあって、「陶蕓村」のような存在として知られており、多くの観光客が訪れている。

陳爐鎮(zhèn)の一角(撮影?勝又あや子)

また、最近では、現(xiàn)代の陶蕓家によって、耀州窯の特徴を生かした作品創(chuàng)作が行われている。中には、耀州窯のシンボル的な存在である「青釉刻花倒灌壺」をアレンジした作品もあった。

現(xiàn)代作家が「青釉刻花倒灌壺」をアレンジして創(chuàng)作した作品(撮影?勝又あや子)

「青釉刻花倒灌壺」は北宋の時代に耀州窯で作られた逸品。1968年に、陝西省彬県城関鎮(zhèn)で、ある農(nóng)民が城壁を修理していた際に発見したものだ。西北大學(xué)哲學(xué)學(xué)科の資料管理員をしていた親戚が帰省した際、この農(nóng)民のテーブルの上にあったこの壺を見つけ、非常に精巧な作りなのできっと由來のあるものだろうと考え、陝西歴史博物館に持ち込んだという。

陝西歴史博物館に収蔵されている「青釉刻花倒灌壺」(撮影?勝又あや子)

この壺には、獅子の形をした口はあるが、上部に蓋も開口部もない。壺をひっくり返し、底の部分にある梅の花の形をした穴から水を注入すると、中にある管を通って壺の中に水がたまっていく仕組みになっている?!袱饯欷扦峡冥樗长埭欷皮筏蓼Δ扦悉胜い工刃呐浃摔胜毪猡筏欷胜いgは獅子の口の內(nèi)部にもう一つ管が下向きに付けられており、壺を逆さまにして注いだ水がこの管の高さを超えない限りは、水がこぼれてしまうことはない。また、水がたまってから壺をひっくり返しても、壺の內(nèi)部の水の高さよりも高いところに注水管の先が位置していれば、底から水が流れ出てこない。この仕組みは、當(dāng)時の人々の科學(xué)的な知識と技術(shù)の高さを示すものとして高く評価されている。

ところで、前出の現(xiàn)代作家が「青釉刻花倒灌壺」をモチーフにして作った作品には、ある機(jī)能が付加されている。この作品は、なんと加濕器。しかも、耀州窯遺址博物館関係者によると、なかなかの売れ行きなのだという。

長く歴史から消えていた耀州窯は、1930年代以降の発掘調(diào)査によって現(xiàn)代にその姿を蘇らせた。そして今、現(xiàn)代の陶蕓家たちによっても新たな命が吹き込まれつつあるようだ。(文/勝又あや子)

「人民網(wǎng)日本語版」2022年9月23日

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