【私と中國(guó)】(5)中國(guó)語(yǔ)に堪能な日本の政治家?海江田萬里氏「小異を殘して大同につく青少年交流がとりわけ重要」
現(xiàn)在、日本の衆(zhòng)議院副議長(zhǎng)を務(wù)める海江田萬里氏は、かつて日本の立憲民主黨の稅制調(diào)査會(huì)長(zhǎng)、民主黨の代表、経済産業(yè)大臣、內(nèi)閣府特命擔(dān)當(dāng)大臣などの要職を歴任した。また一方で、海江田氏は中日友好を熱望する友好人士として、中國(guó)語(yǔ)に堪能であるだけでなく、中國(guó)の古詩(shī)や書道にも精通している。人民網(wǎng)が伝えた。
名前に含まれた意味 「長(zhǎng)城に至らざれば好漢にあらず」
海江田萬里氏の名前を見ると、中國(guó)に深い縁があることがうかがえる。海江田氏は「萬里」という名前について、「私の父親が中國(guó)の『萬里の長(zhǎng)城』にちなんでつけた名前」と話す。海江田氏の父親は新聞?dòng)浾撙?、かつて臺(tái)灣地區(qū)に駐在していたことがあり、中國(guó)の大陸部にも何度も足を運(yùn)んで、中國(guó)の雄大な景色に心を打たれ、自分の息子に「萬里」と名付けたという。小學(xué)生になった海江田氏は自分の名前が「長(zhǎng)城に至らざれば好漢にあらず」という言葉にちなんでつけられたことを知り、幼くして中國(guó)に強(qiáng)い関心を抱くようになった。中學(xué)校の漢文(中國(guó)語(yǔ)の文語(yǔ)文)の授業(yè)では、多くの同級(jí)生は関心がなく居眠りしていたが、海江田氏はいつも興味津々で熱心に聞き入っていたという。
海江田氏が中國(guó)語(yǔ)に初めて觸れたのは1968年のことだった。大學(xué)に入學(xué)して、第三外國(guó)語(yǔ)に中國(guó)語(yǔ)を選択した。しかし、海江田氏は1975年に國(guó)會(huì)議員の秘書として初めて中國(guó)を訪れた際、自分の中國(guó)語(yǔ)は全く役に立たないと痛感し、「中國(guó)研究所(日本の中國(guó)専門の研究機(jī)関)」が開設(shè)した「中國(guó)語(yǔ)研修學(xué)?!工巳毪盲浦袊?guó)語(yǔ)を2年間勉強(qiáng)したのだという。
文學(xué)に専念 書物を出版して獨(dú)自の観點(diǎn)を披露
海江田家の持っていた雰囲気と海江田氏自身の中國(guó)への関心が、中國(guó)語(yǔ)を?qū)Wぶきっかけになっただけでなく、その後の中國(guó)の古典文學(xué)に対する踏み込んだ研究と深い造詣につながった。海江田氏は、「中國(guó)の古典などの本がたくさん家にあった。『水滸伝』や『三國(guó)志』などを子供の頃から読んでいたし、吉川英治が書いた『新?水滸伝』を胸を躍らせて読んだ」と回想する。
海江田氏は中國(guó)文學(xué)の研究を続けるうち、中國(guó)の歴史と文化への理解をより一層深めることになった。2023年9月には、「陶淵明その詩(shī)と人生:混迷の時(shí)代を生き抜く智慧」を出版した。題材に陶淵明を選んだのはなぜかと聞かれた海江田氏は、「一般の理解では、陶淵明は田園詩(shī)人とか隠棲した人に見られるが、実は陶淵明は時(shí)代に対する発言者だった。一般の見方では世捨て人のような、田園生活だけに暮れていたように思われるので、それはちょっと違うと思い、この本を書いた」と答えている。
次の書籍のテーマについて海江田氏は、「やっぱり李白かなと思う。杜甫と李白は、正直に言って詩(shī)は杜甫の方が深いものがあるが、人生の面白さで言うと李白の方が面白い。だから、李白かなと思って、少しずつ伝記を読んでいる」と明かす。
訪中は100回以上 中國(guó)の日進(jìn)月歩の発展をその目で実感
海江田氏は1975年に初めて中日友好協(xié)會(huì)に招かれた中國(guó)を訪れた時(shí)の様子を振り返って、「廖承志氏が會(huì)長(zhǎng)、孫平化氏が秘書長(zhǎng)の時(shí)だった。日本がこれから中國(guó)と協(xié)力して、お互い経済発展するようなチャンスがいくらでもあると思った」と話す。
その後、海江田氏は中國(guó)の「常連客」になり、訪中回?cái)?shù)は累計(jì)100回を超えた。たびたびの訪中の中でも、最も深い印象を受けたのは2009年と2019年の訪中だったという。新中國(guó)成立60周年と70周年にあたるこの2つの年に、海江田氏は日本の國(guó)會(huì)議員として中國(guó)を訪れ、天安門広場(chǎng)で祝賀パレードを見學(xué)した?!杆饯紊蓼欷磕辘?949年で、新中國(guó)の建國(guó)の年と同じなので、子供の頃からずっと関心を持っていた中國(guó)がどうなっているかをこの目で見てみたいと思った。中國(guó)と同い年の自分に、建國(guó)記念の一大イベントをその場(chǎng)で2回も見られるチャンスが巡ってきた。この日中友好の2つの記憶はいつまでも忘れられないものだ」と海江田氏は話す。
海江田氏は、「1975年の時(shí)はいろいろなお土産を中國(guó)に持って行って、中國(guó)の人たちはすごく喜んでくれた。でも、2009年と2019年は持っていくものがなくて、むしろ中國(guó)に行っていろんな買い物をしてきたような狀況だった。そういう意味では変化が非常に大きい」と振り返った。
青年交流を重ねる 小異を殘して大同につく青少年交流がとりわけ重要
國(guó)會(huì)議員としての仕事のほか、海江田氏は日中國(guó)際交流協(xié)會(huì)の會(huì)長(zhǎng)も務(wù)めている。海江田氏によると、同協(xié)會(huì)の活動(dòng)は主に2つあり、これまでは植林に取り組んでいたが、今は一番大事なのはやはり人的交流、特に青少年交流だという。中國(guó)の教育部(?。─瑓f(xié)力し、日本の高校生が中國(guó)を訪問して學(xué)んだり旅行したりする活動(dòng)を定期的に企畫?実施し、參加した生徒には自分の見聞きしたことを作文にまとめてもらっている。作文の中で、日本の生徒は自分の気づいた中日間のさまざまな相違點(diǎn)を書き留めている。海江田氏は「それを読むとすごく面白い。日本は箸を橫に置くが、中國(guó)の人は箸を縦に置く。そういうことから始まって、『非常に面白い』、『興味深い』、『なるほど』と思うような違いを、若い人たちが中國(guó)に行って見つけてきてもらいたい。違いがあるけれどもお互い仲良くしてくべきだということを発見できると、全く違いがなくて仲が良いということよりも、少し息の長(zhǎng)い交流ができると思う」と話す。そして若い世代の交流について、「両國(guó)の若者の間の『小異を殘して大同につく』雙方向の交流がとりわけ重要だ。機(jī)會(huì)があれば、日本の高校生と一緒に再び中國(guó)を訪れたい」と話した。(編集KS)
「人民網(wǎng)日本語(yǔ)版」2023年12月28日
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