日本『留學(xué)生新聞』創(chuàng)刊者の趙海成さんを訪ねる
今回の人物:
趙海成、男性、北京市生まれ。1982年、対外経済貿(mào)易大學(xué)を卒業(yè)後、北京稅関に就職。1985年に日本に留學(xué)し、日本大學(xué)蕓術(shù)學(xué)部修士課程に進(jìn)學(xué)。1985年、友人とともに『留學(xué)生新聞』を立ち上げ、編集長を務(wù)める。10年後、株式會(huì)社大富に入社し、中國中央テレビ(CCTV)の番組の日本での広報(bào)活動(dòng)に攜わる。2年後、日本のテレビ局によるドキュメンタリー『シルクロード』の撮影に協(xié)力。その後、カメラとペンを持ち、フリーライターの身分で多くの中日交流活動(dòng)に參加している。
インタビュー実録:
趙海成さんはベテランジャーナリストである。趙さんが友人と『留學(xué)生新聞』を創(chuàng)刊したのはもう30年近く前になるが、中日交流活動(dòng)の現(xiàn)場では今も、カメラを手にした趙さんの姿をよく見かける。私は先日、留學(xué)という話題について趙さんにインタビューした。
記者:「いつ頃日本に留學(xué)したのですか?その當(dāng)時(shí)の中日両國の交流は、どんな様子でしたか?
趙海成:1982年、対外経済貿(mào)易大學(xué)を卒業(yè)した私は、北京稅関に配屬されました。稅関の現(xiàn)場から始めて、北京を離れる1985年までに、私は空港稅関事務(wù)所の副主任になっていました。將來有望と言われたポストでしたが、私はやはり休職し、日本留學(xué)の道を選びました。1985年、私は日本の土地を踏み、日本大學(xué)蕓術(shù)學(xué)部の大學(xué)院生となりました。その頃、中國人が海外に留學(xué)できるチャンスは非常に限られていました。私は日本に憧れを抱いていて、日本では何もかもがすばらしいと感じました。當(dāng)時(shí)、日本の家電や日本製品はどれも新鮮で魅力的に思えたものです。
■子ども時(shí)代に結(jié)んだ日本との緣
記者:趙さんと日本との縁はいつからですか?
趙海成:私が留學(xué)した1985年、中國はすでに改革開放を開始していました。國は、中國の青年が國外に行って多くのことを?qū)Wび、先端技術(shù)を國內(nèi)に持ち帰ることを希望していたのです。私自身は子どもの頃から日本に興味を持っていました。小學(xué)5年生の時(shí)、クラスに日本人専門家の家の子どもが二人やってきて、一緒に遊ぶようになったのです。その二人が持っていた日本の小型カメラやラジオ、鉛筆削り、児童雑誌などは、中國の子どもたちには特別新鮮でおもしろく見えました。子どもの私にとって、日本という國で作られるものはどれも「おもしろい」の代名詞に見えました。その頃から私は日本に興味を覚え、日本文化にだんだんと觸れるようになり、知り合った日本人から日本語を少しずつ學(xué)んでいきました。