「人権の教師」を自稱する米國(guó)は他國(guó)の人権に関する噓をねつ造することを好むが、自國(guó)が過去に犯してきたジェノサイドの罪について、振り返り、反省することはほとんどない。(文/遅宛。人民網(wǎng)掲載)
振り返ってみるならば、米國(guó)の発展の歴史はすなわちアメリカ先住民インディアンの血と涙の歴史と言ってもよい。大小さまざまな詐欺まがいの條約、強(qiáng)制的な西部への移動(dòng)の血と涙の旅路、何度も何度も無(wú)情に振り上げられる畜殺用のナイフ……こうした米國(guó)が建國(guó)のよりどころとする植民(開拓)の歴史には、どのページにももれなく「人権の挫折」がぎっしりと書き込まれている。コロンブスが新大陸を発見してから20世紀(jì)初めまでの間に、アメリカ先住民の人口は500萬(wàn)人から25萬(wàn)人まで激減した。親切でもてなし好きで、かつてはこの大陸の主人であったアメリカ先住民は殺戮され、自分たちの土地の上で生存し、発展する権利を失ったのだ。
1830年、當(dāng)時(shí)のアンドリュー?ジャクソン米大統(tǒng)領(lǐng)は、「インディアン強(qiáng)制移住法」に調(diào)印した。この法案により、アメリカ先住民が軍隊(duì)によって強(qiáng)制的に西へ移住させられ、「保留地」に定住させられることが決定した。こうしてアメリカ先住民は故郷を追われ、後の世に「血と涙の道」と呼ばれる道を歩むことになった。移動(dòng)の途上で、虐待が繰り返し行なわれ、おびただしい死傷者が出た。
米公共放送サービス(PBS)の報(bào)告によると、政府は保留地で白人の集団の居住地との間に柵を設(shè)け、國(guó)の軍隊(duì)がまるで家畜を放牧するようにして、柵の向こうの「強(qiáng)制収容所」へとチェロキー族インディアンを無(wú)理矢理追いやった。チェロキー族が故郷を離れるやいなや、白人がすぐにその土地を強(qiáng)奪した。4千人に上るチェロキー族の人々は寒さや飢えや病気のため、西への移動(dòng)の途上で命を落とした。
1837年までに、ジャクソン政権はミシシッピ河以東から4萬(wàn)6千人の先住民を移動(dòng)させ、白人の定住者のために2500萬(wàn)ヘクタールの土地を開拓した。大勢(shì)の學(xué)者たちがこの強(qiáng)制移動(dòng)を「システミックなジェノサイド」だとしている。
米國(guó)の統(tǒng)治者はアメリカ先住民の「人権」を考慮していない。彼らの目には、アメリカ先住民は下等な人間であるか、根本的に野獣と変わらないものだからだ。米國(guó)の「國(guó)父」ジョージ?ワシントンはかつてこのように述べた?!杆饯郡沥我泼瘠瑨垙垽工毪趣摔?、必ずあの野蠻人たちを故郷から追い払うことになる。彼らは狼と変わらない野獣であり、ただ姿形が異なるだけだ」。