1957年9月、釈放されて帰國した中國侵略日本軍の戦犯達(dá)が「反戦平和、日中友好」を趣旨とする中國帰還者連絡(luò)會(中帰連)を設(shè)立した。埼玉県川越市にある中帰連平和記念館を訪れて、中日國交正常化を後押しした民間の力を探った。新華社が伝えた。
「日本では、戦爭といえば『東京大空襲』など被害経験に言及する人が大半だ。しかし、自らが戦爭中、中國で犯した様々な犯罪行為を、講演や書籍、ドキュメンタリーなどを通じて語る人々もいる」と、中帰連平和記念館の芹沢昇雄事務(wù)局長は説明した。
1956年夏、中國遼寧省撫順市にある撫順戦犯管理所の日本人戦犯?副島進(jìn)は釈放されて帰國する前に、看守からアサガオの種を渡された?!冈伽又袊藖恧霑rには、武器ではなく花を攜えて來てほしい」との願いからだった。副島と同じ年に、撫順と太原の戦犯管理所に収容されていた他の戦犯1000人以上も日本に帰った。新中國が西側(cè)各國に封鎖され、中日間にもまだ國交がなかった當(dāng)時、中帰連は自ら進(jìn)んで日本の中國侵略における犯罪行為を暴露?批判し、日本社會が新中國を理解する後押しをして、両國の國交正常化を促進(jìn)する民間の力の中核の一つとなったのである。
「記念館には戦犯の殘したものや、學(xué)者の寄贈した5萬冊以上の図書の他にも、いくつかの史料がある」。芹沢氏は黃ばんだ數(shù)枚の紙を取り出した。これらは「中華人民共和國最高人民検察院起訴免除決定書」の日本語版だ?!袱长欷稀ⅳⅳ霊榉袱氨9埭筏皮い吭兢?。彼は困難に直面するたびに、この文書を見ては自らの犯した罪を思い返し、新中國が彼らを?qū)埓螭松饷猡筏皮欷郡长趣蛩激し丹筏?。これは、彼が平和の道を歩み続ける力の支えともなった」。
自らの體験に基づき中國侵略日本軍の殘虐性を暴露?批判し、殉難中國人労働者の遺骨を返還し、會員を組織して中國へ謝罪に行き、日本の歴史改竄教科書を批判し、自衛(wèi)隊の海外派兵に抗議する。1957年以降、中帰連の會員はこうした実際の行動によって日本で反戦平和運(yùn)動を繰り広げ、日中友好交流活動にも積極的に従事してきた。彼らは、真の歴史を永遠(yuǎn)に後世に伝えようと、會員が殘した資料や書籍を保管する中帰連平和記念館を川越市郊外に設(shè)立した。(編集NA)
「人民網(wǎng)日本語版」2022年9月7日