文化的に見ると湖北省襄陽は、明らかに中國(guó)の南方文化と北方文化が交じり合って形成された特徴を持つ街だ。中國(guó)の古代、北方の中原文化と南方の楚の文化がこの地で出會(huì)って融合した。ここは中原文化の薫陶を受けた地であり、また中國(guó)唐代の代表的詩人?孟浩然(689年-740年)が詠んだ「夕次蔡陽館」の詩の一節(jié)“聽歌知近楚”で有名な南方文化の風(fēng)俗に深く影響を受けている土地柄だ。襄陽には、河南會(huì)館、江蘇會(huì)館、浙江會(huì)館、徽州會(huì)館などの全國(guó)20數(shù)地域の同郷會(huì)館(日本の県人會(huì)のようなもの)が集まっている。襄陽は蕓術(shù)においても、南北の戯曲を結(jié)ぶ通路となっており、獨(dú)特の節(jié)回しで唄う「襄陽腔」がこの地で形成された。このほか、「襄陽花鼓」は南北戯曲と現(xiàn)地の民間戯曲が融合して出來た、獨(dú)特のスタイルを持つ地方劇である。
■荊楚文化の発祥地
800年以上続いた楚國(guó)の時(shí)代において、荊襄地域は二つの重要な発展時(shí)期を迎え、その時(shí)代は500年以上続いた。西周の初期、周成王が熊緯に荊山丹陽を領(lǐng)土として與え、紀(jì)元前689年に楚の文王が鄢郢に都を定めてから100年以上の歴史を持つ。鄢郢に都を定めてから、紀(jì)南城に遷都するまで、その間300年もの間に、何代もの楚王がこの地で生まれた?!赋x」(屈原や宋玉を代表とする中國(guó)古代文學(xué)のひとつ)を生んだ始祖である宋玉もここで生まれ育った。今に伝わる中國(guó)の古くからのことわざの「下里巴人」(通俗的文學(xué))や「陽春白雪」(高尚すぎて難解)、「高尚すぎて不人気」などの謂れはここから伝わったものだ。またこの地には、「穿天國(guó)」と呼ばれる湖北襄陽獨(dú)特の祭り(舊歴の正月11日目)や神に通じ巫術(shù)を行う歌舞「端公舞」、「牽鉤劇」、民間に伝わった宮廷音楽の「嗩吶(チャルメラ)巫音」、古代の祭儀儀式の「苞茅縮酒」の楚國(guó)の風(fēng)俗が殘っているほか、西周時(shí)代の鄧城、宜城市の楚皇城、南漳市の楚寨群、棗陽市九連墩の戦國(guó)楚墓等の楚文化を伝える遺跡が殘っており、ここからも襄陽に深く殘る楚荊文化が明らかに見て取れる。
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