■三國(guó)文化の源流
後漢から魏晉に至るまでの約100年間、激しい勢(shì)力爭(zhēng)いが繰り広げられた三國(guó)時(shí)代において、襄陽(yáng)は人材の寶庫(kù)、文化の寶庫(kù)、精神の寶庫(kù)と謳われた。劉備が、「三顧茅廬(三顧の禮)」を以って諸葛亮?孔明を迎え、その諸葛亮?孔明が劉備に対し「隆中對(duì)(天下三分の計(jì))」を説いた三國(guó)志屈指の名シーンの舞臺(tái)である襄陽(yáng)は、魏?蜀?呉の三國(guó)が天下を3分し、互いに抗?fàn)帳筏咳龂?guó)時(shí)代形成の原點(diǎn)となった。晉の武將、羊祜(221年 - 278年)が襄陽(yáng)を守り、晉(西晉)の政治家?武將の杜預(yù)(222年-284年)が呉を破った戦いが象徴するように、襄陽(yáng)は晉が呉を滅ぼし、中國(guó)を統(tǒng)一した地でもある。後漢末期、北方は戦亂となり、後漢の政治家?劉表(142年-208年)は荊州に派遣され、その地を割拠した後、臣民を愛(ài)し、兵を養(yǎng)い、領(lǐng)土を戦亂から遠(yuǎn)ざける政策を?qū)g踐した。それによって襄陽(yáng)は経済が発展、社會(huì)も安定し、亂世の時(shí)代において、穏やかで平和な、まるでオアシスのような地となったため、何千人という人々が続々と襄陽(yáng)にやってきた。その中には、諸葛亮?孔明や司馬徽、龐大公、龐統(tǒng)、徐庶、崔州平ら大勢(shì)の著名な戦略家も含まれていたほか、儒者の宋忠、文學(xué)者の王粲、能書(shū)家の梁鵠、音楽家の杜夔などの傑出した人物が襄陽(yáng)に集結(jié)した。當(dāng)時(shí)の襄陽(yáng)は、このように優(yōu)れた人材がこぞって集まり、一時(shí)期隆盛を極め、全國(guó)の學(xué)術(shù)の中心地となった。教育、文化、學(xué)術(shù)研究などの分野でも突出した業(yè)績(jī)を上げて注目を集め、多様?shù)膜饰幕F(xiàn)象を生んだ。洛陽(yáng)の太學(xué)を參考に設(shè)立された官學(xué)では全國(guó)で唯一、「五行章句」を改定して、儒學(xué)の教科書(shū)とするなどの政策を全國(guó)で初めて実施したほか、官府が所蔵する本は全國(guó)最多を誇った。この學(xué)術(shù)の隆盛は東晉の時(shí)代まで長(zhǎng)らく続いた。この時(shí)期に、東晉の史學(xué)家、習(xí)鑿歯(しゅうさくし)が編纂した歴史書(shū)「漢晉春秋」や「襄陽(yáng)耆舊記」などは、中國(guó)の史學(xué)の発展に対し、深遠(yuǎn)なる影響を及ぼした。
東晉の高僧、釈道安は襄陽(yáng)に15年間に渡って住み続け、仏教學(xué)を研究すると同時(shí)に広め、経典の解釈を一新した。また、僧の戒律や規(guī)則を確立させ、初めて中國(guó)の僧制を制定したほか、中國(guó)初の仏教の経典目録を編纂し、インド仏教の中國(guó)化の基礎(chǔ)を築き、中國(guó)文化の儒教の勢(shì)力構(gòu)造の形成および漢全體に仏教を伝える上で大きな役割を果たした。これによって、襄陽(yáng)は中國(guó)全土において仏教を伝達(dá)?発信する中心地となった。襄陽(yáng)は、「中國(guó)三國(guó)文化の郷」であり、三國(guó)文化を伝える豊かな遺跡?遺産を誇る。また、「三國(guó)志」86巻のうち、18巻は襄陽(yáng)を舞臺(tái)にしているほか、「三國(guó)演義」の120章のうち32章の物語(yǔ)が襄陽(yáng)を舞臺(tái)に繰り広げられている?,F(xiàn)存している三國(guó)の歴史文化を伝える遺跡は50カ所にも上り、「三國(guó)演義」に登場(chǎng)する「司馬薦賢」、「三顧の禮」、「馬躍檀渓(劉備が馬で檀渓の激流を飛び越えた話(huà))」、「水淹七軍(関羽が魏の樊城を水攻めした話(huà))」、「刮骨療毒」など、誰(shuí)もが知っている有名な三國(guó)志の物語(yǔ)は、いずれも襄陽(yáng)市を舞臺(tái)とする。
「人民網(wǎng)日本語(yǔ)版」2013年12月27日
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