多くの臺灣の友人が私に、あの時の北京は忘れ難い印象として殘っていると教えてくれた。當時、今では繁華街として知られる王府井にはまだ高層ビルがなかった。そして、國際貿易センターや朝陽區(qū)の大望路の當たりには農地が広がっていた。臺灣の人々は當時、1960年代中期から急速な経済発展を遂げ、「アジア四小龍(韓國、臺灣、香港、シンガポール)」と呼ばれるようになった達成感を引っ提げて北京に押し寄せ、靜かで質素な北京を見降ろし、そのような感覚を心に刻んだのだ。
今の臺北を適溫のおいしいお茶に例えるとすれば、北京は中でお湯が沸く鍋といったところか。湯気がモクモクと上がり、人を落ち著いた気持ちにさせないのだ。北京は中國大陸部の急速な発展の縮図とも言え、皆が「今逃せば、チャンスはもう後にない」という思いで、前を一心に見て、足を速めている。
もしかすると、20年前の臺北も同じだったのかもしれないが、現在はその足を緩めている。ただ、このペースダウンを、臺北の人々が手放しで喜んでいるというわけでもない。北京ではタクシーがなかなか捕まらないことに嫌気がさしている私が、臺北で手を振ればすぐにタクシーが捕まることに喜んでいても、運転手は「景気が悪い。現地の人はほとんど利用しない。だから旅行客頼り」と不満をこぼしている。
私は臺北の古い街並みが好きだ。しかし、臺灣の友人たちは「臺北はひどい。上海の浦東なんかは昔農地だったのに、今はとっくに臺北と比べられないほどに発展した」と不満を言っている。いい仕事にしていた友人は、辭職屆を出し、その理由は「ゆっくり休んで、人生を考えたい」だった。まだ30過ぎであることを羨ましく思っていたのに、その彼は、「仕事を10年して、昇格もしたのに、昇給がなければ、続けてしたいと思うか?將來どうなるか分からない。だから、いっそうのこと今少し止まってみたいんだ」と冷靜に語っていた。
臺北を離れる前夜、郊外の陽明山から臺北を見下ろした。そして、私の目に淡白で靜かに映るこの都市について考えた。また、浮ついて騒がしい北京に嫌気をさしながらも、まだそこで生活している臺灣の人々についても考えた。過去には、中國大陸部の人々の目に繁栄の光が輝いていた臺北だが、今では、忙しく駆け回る北京の人々が羽を休めにやって來る場所になっている。
過去の臺北が今の北京になり、過去の北京が今、臺北になっているのだ。(編集KN)
「人民網日本語版」2013年12月24日
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