4、政治的に正當(dāng)か正當(dāng)でないか
表現(xiàn)の自由と関連し、外延性のある概念は、「政治的正當(dāng)性」(及び正當(dāng)でないこと)である。
ある言論が政治的に正しくないとみなすことは、表現(xiàn)の自由の限度や制限、タブーとされている範(fàn)疇に抵觸したと考えることだ。政治的に正しいか正しくないかという基準(zhǔn)で言論に安全な範(fàn)囲と限度、觸れてはならない部分を設(shè)定することで、人々は自ら限度を越えることを回避し、意識して自主的な検閲(censorship)をするようになる。たとえば、人種や性別、宗教信仰、社會的弱者に関連する敏感な話題について発言することを避け、他人や特定の人々を傷つけることを避けようとする。
もう一つ、これに関連し、広く中國語で用いられている概念が「政治的正當(dāng)性(ポリティカル?コレクトネス)」だ。「政治的正當(dāng)性」はすなわち政治的に正しくないことの反対の意味にあたり、主流となる価値観や認識、規(guī)範(fàn)、基準(zhǔn)、習(xí)慣に合致している言論である。
たとえば米國では、「民主」や「表現(xiàn)の自由」、「人権」を擁護し、神をたたえることは間違いなく政治的に正しい。中國では、國家主権の神聖さと領(lǐng)土の完全性を擁護することこそが絶対的な「政治的正當(dāng)性」となる。
さらに具體的に言うと、いかなる社會においても、集団?層の違いによって、何が政治的に正しく、何が政治的に正しくないかの基準(zhǔn)は変わってくる。たとえば米國では、誰もが憲法と體制を擁護すると言い、それには議論の余地はない。しかし、「國歌を歌う時に必ず起立し、敬虔な気持ちを持たなければならないか?」、「國旗と國歌に対して疑問を抱き、敬わなくてもいいのか?」という問題に関しては、右派はそれを正しくないと考えるが、左派は受け入れられる(正しくないわけではない)と考えるだろう。
國が違えば、その基準(zhǔn)はさらに異なるものになる。米國では、政治家が神や信仰をたたえても政治的に正しい。しかし英國では、政治家が神をたたえた場合、政治的に正しくないわけではないが、人からおかしいと思われるだろう。
ある社會の人々から政治的に正しい、もしくは正しくないとみなされることに対し、別の社會の人々が下す判斷はその反対になるかもしれない。それは、異なる社會においては、その文化や伝統(tǒng)、歴史、価値観、社會構(gòu)成、直面する社會問題や矛盾點が違うからだ。そのため、一部の基準(zhǔn)(すべての基準(zhǔn)ではない)は社會によって構(gòu)築され、文化によって決定され、特定の社會に的を絞ったものであり、広く適用されるものではない。
西側(cè)世界、特に米國では、民族主義は極めて深刻なタブーとなる。なぜなら西側(cè)社會にはおしなべて非常に複雑な民族関係の歴史があるからだ。
米國では、社會主義は表現(xiàn)の自由に含まれ、政治的に正しくないとは言えないが、「良くない」言葉であり、非常に慎重に用いなければならない(學(xué)術(shù)分野を除く)。西歐では、社會主義は非常によく見かける言葉で、政治的にも正しいと言ってよいだろう。そして日本では、共産黨は確固として存在する重要政黨である。
國によって歴史や伝統(tǒng)、文化、社會人口構(gòu)成、価値観、イデオロギーが異なり、何が表現(xiàn)の自由の限度とタブーで、何が政治的に正しく、何が政治的に正しくないかについても、異なる理解がなされている。一國の基準(zhǔn)を単純にほかの國にもあてはめることはできない。
5、郷に入っては郷に従う
違う國の伝統(tǒng)とタブーを理解し尊重することを覚える
異なる國どうしがつきあう道は「郷に入っては郷に従う」であり、相手の政治的正當(dāng)性の基準(zhǔn)とタブーを理解することだ。
たとえば、米國人や英國人はイスラエルとつき合う際に、ユダヤ人の歴史問題(ユダヤ人大虐殺)と現(xiàn)狀(イスラエルの超タカ派政策)との関係や、パレスチナとアラブといった核心的な問題において、非常に敏感であり、イスラエル人の気持ちに配慮し、タブーに觸れないようにすべきであることを非常によく分かっている。この點をどの英米の政治家や企業(yè)も非常によくわきまえている。
これは何を物語っているのか?この問題と、ある社會における表現(xiàn)の自由及びそれに対する制限との間にはなんら関係がないということである。どの社會にもそれぞれ異なる基準(zhǔn)があり、最も敏感なペインポイントがあり、觸れられたくないタブーがある。いわゆる多元的な文化や國を跨いだ交流は、さまざまな國や社會の文化を理解し、その國や社會の風(fēng)俗を尊重し、特にタブーや敏感な點を尊重し、自分の道徳基準(zhǔn)で単純かつ亂暴に相手を評価するのを避けることなのである。
中國人がもし米國市場に売り込めるような映畫を撮り、そこに民族主義や性差別、宗教的偏見があり、米國の主流価値観を尊重しない內(nèi)容だったら、米國では相手にしてもらえないだろう。したがって、中國は米國の政治的正當(dāng)性と習(xí)慣を尊重しなければならない。
反対に、中國社會のタブーや敏感な點、政治的な正しさとは何だろうか?それは國家主権の不可侵性であり、領(lǐng)土の完全性である。中國はこの點に最も注目している。
このことは表現(xiàn)の自由となんら関係がない。あなたには言論を発表するあらゆる自由がある。相手の政治的正當(dāng)性を尊重しない自由もある。しかし相手のほうにも、侵害されたと感じ、その代価を払わせようとする権利がある。
これがNBAが中國で直面している問題の本質(zhì)なのだ。