全ロシア國営テレビ?ラジオ放送會(huì)社は3月21日、中央広播電視総臺(tái)に貴重な歴史映像資料を寄贈(zèng)した。中央テレビニュースが伝えた。
この映像資料は元ソ連赤軍が中國東北部で日本の関東軍から押収したもので、25分近くにわたる映像にはこれまで公開されたことのない數(shù)多くのシーンが含まれており、日本の侵略者が中國で犯した侵略行為と途方もない大罪を明らかにしている。
映像には、中國侵略日本軍が宛平城の城壁の上をパトロールする様子が記録されている。中國人民抗日戦爭記念館史學(xué)研究部の李慶輝副主任は「『七七事変』(盧溝橋事件)時(shí)には、日本軍の砲兵陣地が宛平城東城門付近にあった。映像にある崩れた城壁は日本軍の砲弾によるものだ。宛平城占領(lǐng)後、日本軍は迅速に國旗を掲げ、武器?裝備及び人員を大量に派遣した。これは彼らの中國侵略が偶然ではなく、前々から企んでいたものであることの証拠でもある」と指摘する。
1937年7月7日、日本軍は兵士1人が「行方不明」になったと噓をつき、「七七事変」を引き起こした。関東軍が畫策?撮影したこの映像で、日本軍は責(zé)任を完全に中國側(cè)に転嫁している。
第二次世界大戦終結(jié)後、極東國際軍事裁判の判決文には、法廷で事実を確認(rèn)した「七七事変」の経緯が詳細(xì)に記されている。判決文は「1937年6月から日本軍は盧溝橋付近において毎晩激しい夜間演習(xí)を行った。従ってこの事件は緊張と不安の雰囲気の中で起きた」「1937年7月7日夜10時(shí)頃、日本軍は演習(xí)後に行方不明になった兵士がいると稱し、その捜索のため宛平城に入れることを要求した。雙方の代表が現(xiàn)地で共同調(diào)査を行っている時(shí)に、日本軍は宛平を三方から包囲して射撃を始めた」としている。専門家は「日本の各回の中國侵略行動(dòng)を振り返ると、様々な口実を設(shè)けて國際社會(huì)の耳目を惑わせるのが常套手段だった」と指摘する。
「七七事変」勃発後、日本は中國に対する全面的侵略を開始した。中國の人々は安住の地を失い、殘忍に殺害されることさえあった。1937年7月29日、北平(北京の舊稱)が陥落した。
中共中央黨史研究室が行った抗日戦爭時(shí)の人的?経済的被害に関する調(diào)査研究によると、日本軍による北平陥落時(shí)に、1萬人以上の民間人が死亡または行方不明となった。しかし、日本軍が畫策?撮影した映像に映っているのは、依然として普段通りの生活を送る北平市民の姿だ。このような「美化」された映像は、日本軍をバックにした「満州映畫協(xié)會(huì)」によって製作された。専門家によると、「満州映畫協(xié)會(huì)」の理事長は日本の特務(wù)機(jī)関員だった。中國侵略戦爭時(shí)、彼らは映像を通じて植民地思想を植え付け、侵略行為を美化した。これは「中國を以って中國を制し」「戦を以って戦を生む」日本の侵略手段だった。(編集NA)
「人民網(wǎng)日本語版」2023年4月17日