苦労に満ちた2年間の証拠探し
大連での旅は、井上氏の世界観を大きく変えた。日本に戻った彼は、「まるで何かに刺激されたかのように」、100年以上前の事件について2年間にわたって難しい調(diào)査と証拠探しを行った。
旅順大虐殺は「中國(guó)人と良識(shí)のある日本人の心の中に眠る歴史の記憶」であると井上氏は考える。殘念なことに、日本の歴史學(xué)界では1980年以降にようやく研究が始まった事件だ。調(diào)査が進(jìn)むにつれ、日本人の「旅順大虐殺」の「集団忘卻」は日本當(dāng)局の故意な隠蔽と事実歪曲によるものであったことが見えてきた。1894年8月1日、中日の相互宣戦布告2日目、內(nèi)務(wù)省は甲午戦爭(zhēng)に関する報(bào)道の規(guī)定として、各社報(bào)道前に原稿を指定の警察局に送付し、審査を経て発表を許可するとした。同時(shí)に、許可を得て軍に隨行する日本人記者130人に対し、當(dāng)時(shí)の最高統(tǒng)帥機(jī)関である大本営も「軍の規(guī)律」を通達(dá)、一部始終を監(jiān)視する士官を派遣し、軍側(cè)が「有害な記者」と看做した場(chǎng)合、即刻國(guó)へ強(qiáng)制送還し、重い罰を下すとした。
しかし、かくも恐ろしい虐殺事件が世界を震撼させることはなかった。海外メディアに対し、當(dāng)時(shí)の日本の陸奧宗光外相は大金を出して報(bào)道の買収措置を講じており、英ロイター、米「ワシントンポスト」といったメディアは日本軍に加擔(dān)して宣伝し、旅順大虐殺の真相を全力で覆い隠したのだ。
こうした発見は、井上氏の「現(xiàn)地調(diào)査で得られた一次資料を基に、日本人に、そして世界に『旅順大虐殺』事件の真相を伝えなければ」という目標(biāo)をより確固たるものにしていった。
井上氏は何年もの間埋もれていた資料の中から、當(dāng)時(shí)日本軍が旅順で行った野蠻な虐殺や日本當(dāng)局の事実隠蔽工作に関する資料を集めて整理した。當(dāng)時(shí)日本の軍國(guó)主義によってこき使われた日本兵らは、戦後帰國(guó)して體験者や目撃者の立場(chǎng)から手記、手紙、日誌などを記しており、それらはすべて井上氏の重要な収集資料となった。理性を完全に失った殺戮現(xiàn)場(chǎng)、虐殺後に広がるこの世とは思えない悲慘な光景を、ある元日本兵は「その光景を筆で表現(xiàn)するならば、文才ある人が數(shù)日かけて観察し、數(shù)週間かけて執(zhí)筆しなければならないだろう。その分量は毎日數(shù)ページ、いや何ヶ月かけて書いても書き終わらないかもしれない」と胸のうちを記している。
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