明治維新の文明開化の時期が去ると、日本人は改めて中國の古典籍の文化的価値を再認識し、これらの書物を保護し始め、様々な手段を使って中國から古典籍を探し求めた。楊氏が書物を求め日本を訪れてから20年後、清の末期における4大蔵書家の1人、陸心源氏の宋元版を収めた皕宋樓(ひよくそうろう)全巻15萬巻の収蔵書は全て日本人に買い取っていかれた。この件が発生してから中國人の多くがショックを受け、中國の學界において書物奪回のために日本へ訪問するという勢いが更に盛んになった。
商務(wù)印書館を50年間経営した出版実業(yè)家の張元済氏は、1928年に日本を訪問した。當時、日本側(cè)は張氏に多大な便宜を図り、特別に日本の皇族図書館「図書寮」への入館を許された。書物を探す間、張氏は中國の古典籍を最も多く収蔵する靜嘉堂文庫を訪れた。皕宋樓が収蔵されているのもこの場所である。日本での3か月間、張氏は晝は図書館で閲覧し、夜はノートにまとめた。また日本側(cè)の商人に大量の內(nèi)容見本を借りた。これらの仕事は中國國內(nèi)の古典籍を充実させるのに重要な意義を持っていた。
張元済氏のあと、引き続き日本を訪れたのは民國時代の著名な蔵書家の傅増湘氏だ。1929年秋、傅氏は日本を訪れ、気の向くまま各地を廻り書物を探した。彼は張氏の資料を持っていたため、その手がかりを頼りに古典籍を探すことができた。傅氏の「書物を探す旅」は1か月に満たなかったが、彼の功績は大きい。中國に戻ったあと、彼は訪ね歩いた古典籍についてをノートにまとめ、「蔵園東遊別録」を完成させた。同書は多くの古典籍の歴史や版本について考察している。
全般的に、清の末期から民國時代の50年の月日で、日本が収蔵している中國の古典籍、特に東京、京都一帯の中國の古典籍は全て中國人によって調(diào)査されていた。書籍を探すことの成果は中日文化交流を促進しただけでなく、中國の古典籍の収蔵をより充実させ、大きな功績を遺す偉業(yè)という事ができる。(編集JK)
「人民網(wǎng)日本語版」2015年12月24日
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