中國共産黨における最高栄譽(yù)である「七一勲章」の受章者で、新中國の胸部外科事業(yè)を開拓し、その基礎(chǔ)を固め、中日友好病院の初代院長、教授、博士課程指導(dǎo)教員といった肩書を持つ辛育齢氏が今月7日午後10時(shí)54分、北京で亡くなった。享年101歳。
ノーマン?ベチューン氏と肩並べて100日以上にわたり醫(yī)療活動(dòng)
1938年5月、當(dāng)時(shí)17歳だった辛氏は、抗日戦爭(日中戦爭)時(shí)に華北で活動(dòng)していた中國共産黨軍(通稱「八路軍」)に參加し、衛(wèi)生部後方病院の衛(wèi)生員として活動(dòng)したほか、2年目にはカナダの外科醫(yī)ノーマン?ベチューン氏の醫(yī)療チームに派遣された。
戦火の激しい第一線で、辛氏はノーマン?ベチューン氏が尻込みすることなく、落ち著いて、負(fù)傷した兵士らの手術(shù)を行う姿を何度も目にした。ノーマン?ベチューン氏と肩を並べて活動(dòng)したのはわずか100日ほどだったものの、その経験は辛氏に大きな影響を與え、醫(yī)學(xué)を?qū)Wんで國のために身を捧げたいと思うようになった。
誓いを果たし続け「0から1」へのブレイクスルーを次々と実現(xiàn)
醫(yī)學(xué)の分野で、辛氏は數(shù)多くのブレイクスルーを?qū)g現(xiàn)してきた?!该蚓趣へ?fù)傷者を助けることは生涯の願(yuàn)い、そのために身を捧げることが人生の価値」としたためた辛氏は実際の行動(dòng)でそれらを?qū)g現(xiàn)していった。
中國初の肺移植手術(shù)の執(zhí)刀醫(yī)を務(wù)め、中國で初めて鍼麻酔が施された狀態(tài)で肺の切除手術(shù)を行うなど、醫(yī)師になって80年あまりの間に、新中國の胸部外科事業(yè)の開拓者として、辛氏は中國の醫(yī)學(xué)界、ひいては世界の胸部外科の分野をリードしてきた。
その後、辛氏は3年かけて中日友好病院の建設(shè)に攜わり、完成後は自ら院長の職務(wù)を辭して、研修クラスの開設(shè)に率先して取り組み、胸部外科を支える1000人以上の醫(yī)師を育成したほか、各地の病院40施設(shè)以上が胸部外科を設(shè)置するよう指導(dǎo)し、中國胸部外科教育?研究體系を構(gòu)築した。
北京中日友好病院で撮影した辛育齢氏(現(xiàn)像された過去の寫真、撮影?張玉薇)。
晩年の辛氏は體調(diào)がますます悪化し、心配する家族が何度も休むように勧めたものの、辛氏は、「まだ仕事を続けられるし、一人でも多くの患者を診察したい」と話していたという。そして、89歳の時(shí)、診察をしていた際に腰を悪くして立てなくなってしまい、とうとう診察を続けることを斷念せざるをえなくなった。當(dāng)時(shí)、辛氏は、「生涯醫(yī)師として無數(shù)の患者を診て來た。心殘りはない」と話していたという。
中國共産黨創(chuàng)立100周年を迎えた2021年、100歳だった辛氏は、「七一勲章」を受章した。辛氏の娘は、「當(dāng)時(shí)、父はいつも半分眠っているようなぼんやりしている日々だったが、この知らせを耳にすると、たちまち元?dú)荬摔胜?、『良かった!とてもうれしい』と何度もつぶやいていた」と振り返る?/p>
「ノーマン?ベチューン氏のような醫(yī)師になれ」
肺移植を受け、術(shù)後5年の患者と會(huì)話する辛育齢氏。
辛氏の教え子である劉徳若さんは、「辛先生の執(zhí)務(wù)室は年中明かりが燈っていた。勤務(wù)中でも、退勤後でも、辛先生はいつも仕事をしていて、病院に住んでいるかのようだった。そのため、後輩たちは『病院に住んでいる醫(yī)師』と呼んでいたほど」と振り返る。
「ノーマン?ベチューン氏のような醫(yī)師になれ」というのが、辛氏が若い醫(yī)師に贈(zèng)っていた言葉だ。こうした精神に感化されて、數(shù)多くの若い醫(yī)療従事者が白衣を戦闘服として、使命を果たし、責(zé)任ある行動(dòng)をしている。
人を思いやる心を抱き続けて、數(shù)多くの患者を救ってきた辛氏はこれからも多くの人の記憶の中で生き続けることだろう。(編集KN)
「人民網(wǎng)日本語版」2022年6月9日