中國(guó)人民抗日戦爭(zhēng)ならびに世界反ファシズム戦爭(zhēng)勝利70周年を記念して、今月3日に北京で行われた軍事パレードを、天安門(mén)から見(jiàn)學(xué)する新潟生まれの華僑?恵京仔氏の姿があった。恵氏とは、一體どんな人物なのだろう?央視國(guó)際が報(bào)じた。
原籍地が中國(guó)山東省の恵氏は1932年に新潟県で生まれ、今は有名な透析治療の専門(mén)家として活躍している。醫(yī)者になった理由について、恵氏は「子供のころの経験と無(wú)関係ではない」とする。
第2次世界大戦中、恵氏は日本の小學(xué)校に通っていたものの、「中國(guó)人」であるため、登校する時(shí)には、兵士や警察が付きまとい、學(xué)校でも、同級(jí)生から罵聲を浴びたり、教師から毆る蹴るの暴行を受けたりするなど、理不盡な境遇に立たされた。また、テストで1位の成績(jī)を収めても、わざと最下位にされたりもしたという。そのような目に會(huì)っても、恵氏はぐっと歯を食いしばり、涙を流すこともなかった。しかし、南京が陥落した日、全校生徒と教師が歌を歌いながら街を行進(jìn)し、興奮が高まる中、恵氏は軟禁され、無(wú)理やり土下座をさせられたという。そして、怒りと屈辱で、恵氏は涙を抑えることができなくなり、大泣きした。その時(shí)、健康な體と精神力がなければ、國(guó)の繁栄はないと思い、醫(yī)師になることを志した。
その後成長(zhǎng)してからも、恵氏はその目標(biāo)を達(dá)成しようと努力し、新潟県の女子大學(xué)の入試を受けようとしたものの、拒否された。そのため、父親が必死に受け入れ先を探しまわり、さまざまな障害を乗り越えて、恵氏はついに昭和大學(xué)醫(yī)學(xué)部に入學(xué)した。そして、卒業(yè)してから數(shù)年後、新潟大學(xué)で醫(yī)學(xué)博士の學(xué)位を取得し、新潟山東病院の院長(zhǎng)になった。
恵氏は43歳だった1975年、透析の専門(mén)家として、初めて中國(guó)の地を踏み、北京友誼病院に、人工透析裝置6臺(tái)を贈(zèng)呈。中國(guó)初の人工透析醫(yī)療センターを立ち上げ、無(wú)料で醫(yī)師や技術(shù)スタッフの育成をサポートした。
現(xiàn)在、國(guó)際醫(yī)學(xué)界でも名を馳せる恵氏は「今でも、日本での生活にはいろいろと不便なことがある。でも、どんなに不便であっても、國(guó)籍を変えるつもりはない。なぜなら祖國(guó)を深く愛(ài)しているから」と語(yǔ)る。
「人民網(wǎng)日本語(yǔ)版」2015年9月15日
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