最後の授業(yè)の時(shí)、私は詩(shī)人?王維の「さあ、もう一杯酒を飲みたまえ。西のかた陽(yáng)関という関所を出たら、もう、友人もいないのだから」という詩(shī)を選んで、中國(guó)の唐詩(shī)について話した。
授業(yè)が終わると、鳥(niǎo)飼さんが送別會(huì)をしてくれた。はしご酒をし、「また必ず會(huì)おう」と約束して、地下鉄の駅で手を振って別れた。私と一緒に駅に入った鳥(niǎo)飼さんはプラットホームで、ほほ笑みながら「先生に會(huì)いに、必ず中國(guó)に行く」と中國(guó)語(yǔ)で話し、手を振ってくれた。
今は交通も通信も発達(dá)し、「西のかた陽(yáng)関という関所を出たら、もう、友人もいない」という悲壯感は全くない。帰國(guó)後も、生徒らと頻繁に連絡(luò)を取っている。メールが一番を多いのは鳥(niǎo)飼さんで、みんなの近況や會(huì)議があって米國(guó)に行ったとか、熱を出して入院したとか、射撃大會(huì)で賞を取ったなど自分の近況も教えてくれた。しかし、ある時(shí)からメールの間隔が長(zhǎng)くなり、その後、他の生徒からのメールで鳥(niǎo)飼さんは入院して帰らぬ人になったことを知らされた。ある時(shí)、私は、鳥(niǎo)飼さんを連れて中國(guó)の大學(xué)のキャンパスを歩く夢(mèng)を見(jiàn)た。そして夢(mèng)の中で、私は鳥(niǎo)飼さんに「これが中國(guó)」と話していた。
クラスのメンバーは技術(shù)士會(huì)の活動(dòng)に頻繁に參加し、中國(guó)に來(lái)て、科學(xué)技術(shù)テクノロジーの技術(shù)者と交流したり、ニーズのある中國(guó)の企業(yè)とマッチングをしたりしている。日本の戦後の高度経済成長(zhǎng)を必死に戦い抜いてきた老いた専門家たちは、80代や90代という老齢になりながらも、自分なりの方法で自分の存在価値を高めている。まじめで、粘り強(qiáng)く、何事もやり通すという純粋な子供のような心を彼らは持っているのだ。(編集KN)
「人民網(wǎng)日本語(yǔ)版」2016年7月12日
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