10年前、日本に住んでいた時(shí)、中國(guó)語(yǔ)を教えたことがある。その時(shí)の生徒たちは、私の父親と同じくらいの年齢の人ばかりだった。そんな彼らが白い頭を下げてあいさつをし、敬意を込めて「先生」と呼んでくれると、「これら日本のテクノロジー界の専門家にちゃんと中國(guó)語(yǔ)を教えることができるのか」と不安な気持ちになったものだ。(文:潔塵 會(huì)社員。新華網(wǎng)掲載)
この中國(guó)語(yǔ)教室は、唐家■(■はおうへんに旋)氏が駐日中國(guó)大使だった時(shí)に提案して開かれ、生徒は全て「技術(shù)士」と呼ばれる専門家ばかりだった。生徒らは各分野の専門家や學(xué)者であったが、中國(guó)語(yǔ)レベルでは全くの「素人」だった。
生徒らは授業(yè)をまじめに受け、積極的に発言、いろいろと質(zhì)問(wèn)もした。時(shí)には一つの名詞を説明するために中國(guó)と日本の違いや中國(guó)社會(huì)の問(wèn)題まで説明する必要があった。また、生徒らが主導(dǎo)となり、日本の狀況を説明してくれることもあった。
ディクテーションという読み上げられた外國(guó)語(yǔ)の文章や単語(yǔ)を書き取る授業(yè)を始めた時(shí)には、生徒たちは一喜一憂。老眼鏡をはずしたり、かけたりしながら、自分が書いた字と黒板に書かれた答えを比較し、正解であれば大喜び。一方、間違っていた時(shí)には、ちょっとした違いにぶつぶつ言いながら、正解を書き寫し、赤ペンで丸を付けていた。
クラスの班長(zhǎng)は、最年長(zhǎng)の長(zhǎng)友さんで、日本技術(shù)士會(huì)に所屬する人望家だった。80代の長(zhǎng)友さんは、背が低いにもかかわらず、重いリュックをいつも背負(fù)っていた。私はその中に何が入っているのがとても興味があったが、長(zhǎng)友さんは、「特に大切な物はない。これを背負(fù)ってあちこち歩き回れるということはまだ元?dú)荬趣いΔ长取工刃Δい胜樵挙筏皮い俊?/p>
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