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2014年5月16日  
 

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人民網(wǎng)日本語版>>中日フォーカス>>留日帰國者インタビュー

中日米三カ國を歩いたベテランビジネスマン?藍(lán)暁氏

 2010年12月24日18:27
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 藍(lán)暁氏は、正大食品企業(yè)(上海)有限公司副総裁(北京支社COO)、東京都立大學(xué)大學(xué)院博士課程前期(計量経済分析?國際金融)終了の修士だ。かつて東京地方自治體の外國籍の特別招聘公務(wù)員をつとめ、日中間の政府協(xié)力や民間友好交流に數(shù)年間従事した。米國C社の東京支社に入社した後、農(nóng)業(yè)?畜産食品業(yè)界での職業(yè)生涯を歩み始め、後に東京支社の社長代理をつとめた。1995年末に米國本部に異動、アジア地區(qū)業(yè)務(wù)総監(jiān)をつとめる。その後、日本資本のグローバル企業(yè)N社の米國支社に移り、アジア地區(qū)経理を擔(dān)當(dāng)、北米や南米、日本、中國?香港?臺灣、シンガポールなどの農(nóng)業(yè)?畜産食品の國際業(yè)務(wù)に従事。2007年秋に正大集団に移り、23年の間離れていた祖國の北京に戻り、同集団の食品事業(yè)分野の國際業(yè)務(wù)に従事している。

 上述の略歴を見ると、氏が豊富な経歴を持つベテランのビジネスマンであることがわかる。中國から日本へ留學(xué)し、現(xiàn)地で就職して何年も働き、その後また米國へ行き何年も仕事をする。異國で20年以上も働き、生活し、氏は普通とは違ったどのような経験を経てきたのだろう。日米両國の人間と接し、どのような感想を持つのだろう。


 ----いつ日本に留學(xué)されたのですか。

 今から數(shù)えると25年前、1985年の1月です。


 ----どうして留學(xué)を選んだのですか。

 私は大學(xué)で日本語を?qū)煿イ筏蓼筏?。?dāng)時日本は、多くの中國人にとってまだ非常に遠(yuǎn)く、影響力の大きな場所でした。また私が小學(xué)生だったころ、同級生の兄が東南アジアで外交官を勤めていたのですが、當(dāng)時は外交官というのは本當(dāng)に珍しく、時々彼が兄や國外のことを話すのを聞いて、とても神秘的で影響力があったのです。

 私は文革以後に大學(xué)に入學(xué)しましたが、當(dāng)時中國政府は既に対外開放を明確に提唱していたものの、國外がどんな様子かは誰も知りませんでした。當(dāng)時の中國では、外國人は非常に珍しく、時々見かけると、外國人の話すこと、持っているもの、全てが珍しく感じられ、大勢が集まってきたため、當(dāng)時は政府が市民に外國人ゲストにつきまとわないようにと呼びかけるような情況でした。改革?開放政策の実施で國外に留學(xué)に行くことが可能になったので、日本に行くことに決めたのです。


 ----當(dāng)時の中日交流はどういった狀態(tài)でしたか。

 當(dāng)時の中日交流は少なかったです。1972年に國交は回復(fù)したものの、長い間雙方の交流は政府レベルに限られていました。私達(dá)が大學(xué)に通っていることになると徐々に、日本の民間人が訪れるようになり、観光に來る人もいました。當(dāng)時、本當(dāng)の日本人と日本語で交流して練習(xí)するチャンスがあると、みんな熱心に話したものです。つまり、民間交流は改革?開放以降初めて始まったということもできるでしょう。


 ----當(dāng)時は交流がまだ少なかったのですね。

 そうです。例えば、當(dāng)時全國の全ての大學(xué)で日本語専攻で募集される新入生は1年で100人以下で、いくつかの外國語學(xué)校のみに限られ、非常に少なかったです。現(xiàn)在大學(xué)の日本語教師はいずれも修士や博士の卒業(yè)生ですが、當(dāng)時は日本語専攻の教師も専門學(xué)部の卒業(yè)とは限らず、日本語が少々できる人間が教師をつとめていることもありました。


 ----先ほど1985年初めに日本に行ったとおっしゃいましたが、日本に行ったばかりのころはどんな感じでしたか。
 日本経済の高度成長は1980年代が最も輝かしい段階にありました。東京についたのは1月15日の夜だったと覚えていますが、到著後バスで東京の新宿に行くと、見えるのは一面の高層ビルと明るいネオンの広告でした。ちょうどその日は日本の成人式で、若い男女がきれいに著飾った姿は華やかな雰囲気で、當(dāng)時、それまで感じたことのなかった強(qiáng)烈なインパクトを感じました。現(xiàn)在の中國人が日本に行ってもおそらく違いを感じるとは思いますが、これほどのインパクトは感じないでしょう。當(dāng)時の中國の経済水準(zhǔn)と日本とは全く比べ物にはなりませんでした。行った當(dāng)日の晝、北京の長安街で広く見渡してもっとも目を引いたランドマーク的建築物は、國際クラブの茶色のビルでした。しかし當(dāng)時の東京の多くの場所は、現(xiàn)在の北京の國貿(mào)一體の賑やかさと変わらないでしょう。

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