「不東」は高校の先生から學(xué)んだ言葉だという。その先生によると、衆(zhòng)生を救うためにと天竺へ取経の旅に出た三蔵法師は、真経を手にできなければ東へは行かないと誓ったという。つまり、真経を手にできなければ帰らないという意味だ。三蔵はそうした強(qiáng)い意志を刻み、多難の道中を経て最終的に取経に成功する。この物語は白西さんを心服させるとともに、「不東」は生涯の信條となり、中日友好事業(yè)に従事することへの決意となった。
「中國(guó)各地を訪れたが、中國(guó)以外には行ったことがない」。「アメリカは世界最強(qiáng)の國(guó)だが、アメリカが全世界でやっていることに不満があるので、アメリカに行く気はない。どうしてもというなら、中國(guó)、歐州を通って西回りでアメリカに入る」と話す。
白西さんは1940年6月26日に広島で生まれ、広島大學(xué)附屬高校在籍中、東洋史を研究する先生の影響で「三國(guó)志」や「西遊記」といった中國(guó)を代表する文學(xué)書籍を読むようになり、中國(guó)に強(qiáng)い関心を抱くようになった。また、故郷広島は日本の「中國(guó)地方」に位置し、「中國(guó)銀行」や「中國(guó)新聞」、「中國(guó)電力」といった「中國(guó)」を冠する會(huì)社や機(jī)関が多く、「中國(guó)」という言葉にもなじみがあるという。
大學(xué)を卒業(yè)後は中國(guó)への留學(xué)を考えていたが、様々な原因でそれは葉わぬ夢(mèng)となった。1967年に仕事を始め、同年5月に天津で日系企業(yè)の展示會(huì)が開かれることを知り、日本の貿(mào)易組織を通じて展示會(huì)事務(wù)局に入って初訪中し、このときから中國(guó)との縁を深めた。
侵略戦爭(zhēng)と反侵略戦爭(zhēng)を區(qū)別 交流通じて理解促進(jìn)
中日友好交流に従事するとともに、白西さんは「戦爭(zhēng)反対、歴史を忘れない」の原則を堅(jiān)持し、日本が発動(dòng)した侵略戦爭(zhēng)の謝罪と反省の意を中國(guó)國(guó)民に繰り返し伝え、日本政府にも歴史を正視するよう積極的に呼びかけている。白西さんが5歳の時(shí)には戦爭(zhēng)は終結(jié)していたが、戦爭(zhēng)の慘さは幼少期の白西さんに深い印象の殘したため、平和の尊さを痛感している。
1945年8月6日、米軍は広島に原爆を投下し、日本の降伏を加速するとともに、現(xiàn)地に甚大な被害をもたらした。白西さんはあの日、祖母と広島におり、投下された原爆の爆発音を今でも鮮明に覚えている。すだれ越しに稲妻のような光を見るや否や、巨大な爆発音が続き、祖母とすぐに物陰に隠れたために怪我をせずに済んだ。実家はお酒を造っていたため、2日後の8月8日、父親の自転車の後ろに乗って広島市中心部にある酒蔵を見に出たが、あたりは廃墟と化していた。白西さん一家の命は守られたが、友人や親戚は原爆の犠牲となっており、こうした情景は生涯忘れ難い幼少期の記憶となっている?!袱胜紟趰uがこんなに大きな爆弾に襲撃されねばならないのか」、當(dāng)時(shí)小學(xué)生だった白西さんは理解できずにいた。その後分かったことは、米軍は日本の重要な軍港を狙い撃ちしたということ。當(dāng)時(shí)広島には江田島海軍兵學(xué)校、大型戦艦の製造所などがあり、侵略戦爭(zhēng)に加わった多くの軍隊(duì)がそこから派遣された?!笌趰uは決して普通の街ではなく、日本軍國(guó)主義の重要な拠點(diǎn)」だったのだ。
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