過去を思い起こしながら涙を拭う元中國殘留日本人孤児
「いつの日かあの子に會(huì)いに行きたい」
殘留孤児の12日のイベントに、李さんは養(yǎng)父母を代表して參加した。この日帰宅した李さんは、「私の娘が帰ってきていない」と悲しい気持ちになっていた。
90歳になる李さんは、未だに2つの日付をはっきりと覚えている?!?980年5月18日、1981年9月27日」。前者は娘の田麗華さん(日本名?池辺順子)が日本人殘留孤児として確認(rèn)された日。後者は娘が家族で中國を離れた日だ。中日両國の國交正?;?、中國の養(yǎng)父母が別れという無念の悲しみを受け入れなければならないことを意味していた。1981年、日本政府は中國の日本人殘留孤児の捜索計(jì)畫を発表、同年、中國政府の協(xié)力の下、田さんを含む第一期日本人孤児が帰國の途に著いた。
日本に帰國した田さんは頻繁に養(yǎng)父母と連絡(luò)をとった。生活費(fèi)を送って親孝行することもあれば、生みの親の待遇はさほどよくはなく、政府の殘留孤児に対する生活補(bǔ)助が滯っているといったやるせない思いや不安を手紙に綴ることも多かった。その度に李さんは勵(lì)ましの手紙を返した。
1984年8月、娘が初めて養(yǎng)父母に會(huì)いにハルビンに戻った。2回目はその12年後だった。その後19年間は娘の顔を見ていない。噂では娘婿が日本で他界し、うつになっているという。
「いつの日かあの子に會(huì)いにいきたい」。李さんは娘のことをいつも気にかけていた。そして命あるうちに一度日本に渡り、一目娘の顔を見たいと願(yuàn)い続けている。(編集IM)
「人民網(wǎng)日本語版」2015年7月16日
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