「北風(fēng)が砂ぼこりを巻きあげ、近くも見(jiàn)えなくなり、口の中はじゃりじゃりしている。道を歩く人も車(chē)に乗っている人もみなハンカチで顔を覆っている。これが、北京の砂埃か」。これは、「笛の聲三萬(wàn)里」と題する旅行日誌に書(shū)かれた、東亜同文書(shū)院の學(xué)生?宇治田直義さんや太田文哉さんらが1915年7月24日に見(jiàn)た北京の印象だ。同年6月28日、この數(shù)人の日本人學(xué)生は、上海浦東を出発して北に向かい、鎮(zhèn)江、曲阜、天津、北京、瀋陽(yáng)、哈爾濱(ハルピン)などを経て、最終的に中國(guó)とロシアの國(guó)境付近にたどり著いた。(文:杜羽。光明日?qǐng)?bào)掲載)
これは、単なる夏休みの旅行ではない。「中國(guó)通」を養(yǎng)成するために、日本が上海に設(shè)置した大學(xué)?東亜同文書(shū)院の學(xué)生は高學(xué)年になると、グループに分かれて、3ヶ月から半年かけて、中國(guó)各地に調(diào)査に出かけた。彼らの記録も、単に見(jiàn)聞きしたことや感じたことを書(shū)いたと見(jiàn)なされたわけではない。これら旅行日誌や卒業(yè)論文として書(shū)かれた特定項(xiàng)目調(diào)査報(bào)告は、同校の図書(shū)館に提出されただけでなく、日本の外務(wù)省などの政府機(jī)関にも送られ、日本の対中國(guó)政策の參考にされた。
1901年から45年の40年以上の間、東亜同文書(shū)院は総計(jì)4000人以上の學(xué)生を約700の調(diào)査班に分けて派遣し、まさに「絨毯式」ともいえる現(xiàn)地調(diào)査を?qū)g施した。中國(guó)國(guó)家図書(shū)館はこのほど、その調(diào)査報(bào)告を「東亜同文書(shū)院中國(guó)調(diào)査手稿叢刊」にまとめて、発刊した。
計(jì)200冊(cè)の叢刊には、船や車(chē)、馬に乗ったり、歩いて行った旅行の內(nèi)容が記録されており、「山東省石炭調(diào)査」、「南洋華僑の現(xiàn)狀」、「北京書(shū)業(yè)調(diào)査」、「羊毛調(diào)査」などの報(bào)告を含んでいる。中國(guó)の政治の動(dòng)きや変遷、日本人學(xué)生が目にした中國(guó)社會(huì)の実態(tài)を詳しく知ることができる。
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