若い時(shí)、友達(dá)と一緒に北京の東直門のグルメ街である■街(■は竹かんむりに艮、その下に皿)に行き、夜遅くまでお酒を飲みながら、肉の串焼きやザリガニ料理を食べるのが好きだった。そして、腳本家である私は友人に自分が作った物語(yǔ)を語(yǔ)っていた。このグルメ街でお酒を飲むのにはルールがあり、夜中に街をふらついている亡霊のために、帰る時(shí)にはお酒をコップ半分、料理を一口殘しておかなければならず、そうしなければ亡霊が家までついてくるとよく言ったものだ。もちろん、それは酒の席での「ネタ」に過(guò)ぎないが。(文:大米。光明網(wǎng)掲載)
このグルメ街は、元々「鬼街」と呼ばれていた?!腹斫帧工扦膝ぅ岍`ジが悪いため、発音はそのままで漢字を変え、現(xiàn)在の名前で呼ばれるようになった。しかし、「鬼街」が元々どんなところであったかは今でも多くの人が知っている。昔、東直門の橋の近くに中國(guó)古代の3足の酒器「爵」があったのを覚えている。今はそこに、祖先を祀るために穀物を盛るのに用いられる鉢形の器「■」が置かれている。このように中國(guó)の伝統(tǒng)文化の遺伝子において、「食」と「死」には密接な関係がある。
清の時(shí)代、北京の各城門にはそれぞれ異なる用途があり、用途に反して利用することはできなかった。例えば、東直門は、北京城內(nèi)に木材を運(yùn)ぶほか、城外に死體を運(yùn)ぶための門だった。深夜に死體を運(yùn)び出し、埋葬しに行く前に、人々はここで足を止め、お酒を飲みながら食事をし、お腹を満たして元?dú)荬颏膜堡?。明るく活気ある城?nèi)に対して、城外は真っ暗な墓地だった。その後、1949年に新中國(guó)が建國(guó)されるとそこには、いろんな物を売るたくさんの店が集まるようになった。しかし、國(guó)営の百貨店を含めてほとんどの店が長(zhǎng)続きせず、飲食店だけが繁盛していた。また、それらの飲食店は、日中はほとんど人気がないのに対して、夜になると大勢(shì)の客でにぎわう。反対に、平安大街に行くと、食欲はわかず、飲食店を見(jiàn)てもほとんど客はいない。これが文化、伝統(tǒng)、習(xí)慣である。
「食」と「死」には切っても切り離せない密接な関係がある。生きている間は、毎日必ず食事をし、この世を去る日になって初めて食べ物を消費(fèi)する必要がなくなる。その日には、親戚や友人らは宴會(huì)を行い、人が亡くなったという悲しみを、たくさん食べることで紛らわそうとする。中國(guó)古代の詩(shī)人?陶淵明は、「親戚は悲しみ余し、他人は已に歌う。 死し去らば何の道ふ所ぞ、體を託して山阿に同じくせん」と詠んだ。日本文化において、死に対する態(tài)度は、魏晉南北朝時(shí)代(220—589年)の型にはまらない態(tài)度を継承している。
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