淺野氏は取材の中で、幾度も周総理や大平外相など、先代の政治家に言及した。淺野氏はこれらの政治家の中日関係に対する先見性と誠意、そして彼らの人間的な魅力に心服させられたという?!感疫\なことに、周恩來総理に接見していただく機會に恵まれた。周総理の中日関係発展に関する言葉は、かけがえの無い誇りと指針となり、今でも心に生きている」。淺野氏は2010年に政界を引退した後も、中日交流事業(yè)に力を注いだ。2011年以降、招きに応じて北京大學(xué)で7回にわたる講演を行い、學(xué)生たちに自らが體験した中日関係の発展の歴史を語り、中日友好への期待を伝えてきた。淺野氏はこうした交流を「草の根の交流」と呼ぶ。中日國交正常化に立ち?xí)盲?人である淺野氏は、先代の政治家たちが中日関係のために行った貢獻(xiàn)を中日両國の若者に伝え、若者たちが「溫故知新」し、そこから何かを?qū)Wび、中日関係に正しく向き合い、素晴らしい未來を創(chuàng)造することを望んでいる。今年5月、淺野氏は北京大學(xué)など中國の大學(xué)で8度目となる講演を行った。
同世代の多くの人と同じように、戦爭は淺野氏に辛い記憶をもたらした。日本が降伏した1945年、淺野氏はちょうど小學(xué)一年生だった。淺野氏は當(dāng)時を振り返り、「當(dāng)時、日本の主な都市はほとんどが米軍の爆撃を受けた。私の故郷?愛知県豊橋市も例外ではなく、2つ年上の兄と祖母と手をつないで、その戦火を逃げ惑ったのを今も記憶している」と語る。
戦後、ほとんどの日本人は貧困を経験した?!府?dāng)時はお米がなくてイモばかり食べていた。アメリカが援助した學(xué)校給食の粉ミルクが唯一の栄養(yǎng)源だった。それが後になって、家畜用の脫脂粉乳だったことがわかり、敗戦國の立場を思い知らされた」。
淺野氏は「戦爭というものは、勝っても負(fù)けても犠牲になるのはその國の市民?;イい?、どんなに考え方が違っても、溝があっても、どれほど大きな対立點を持っていても、武力でそのことを解決するのは許してはならないし、間違っている。私たちの世代は、戦爭は二度と許してはいかんという思いが強い。最近日本の世論が右傾化の傾向にあることを懸念している」と語る。
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