正直言って、おじさんが料理をしている姿なら、魅力あるというのも納得でき、それなりの格好をして、ある程度の腕前を見せることができれば、ポイントも高まる。しかし、おいしそうに食べる姿で人を魅了するというのは、かなりの至難の業(yè)だ。しかし、松重豊はそれをやってのけ、一人でする食事を、楽しみを感じる恒例の時(shí)間にしてしまった。立ち並ぶ飲食店の前に立ってじっくり考え、その中から1軒を選んで入り、メニューに2、3回目を通してから、注文する料理を慎重に選ぶ。それがおいしかった時(shí)は、心の中で大喜びし、注文しすぎたり、組み合わせを間違えた場(chǎng)合はがっかりして肩を落とす。また、隣の人が何を食べているかをこっそり見て、「しまった!あれもおいしそうだ!食べたいなぁ!」と心の中でつぶやく。このドラマの見所は、食事をしているだけに見えるおじさんの、感情豊かな表現(xiàn)だ。
「孤獨(dú)のグルメ」 は中國(guó)版も製作された。舞臺(tái)となったのはほとんどが屋臺(tái)のB級(jí)グルメが人気の中國(guó)臺(tái)灣で、主演を務(wù)めたのもおじさん俳優(yōu)の代表ともいえる趙文▲(▲は王へんに宣。ウィンストン?チャオ)だった。しかし、中國(guó)語(yǔ)版のドラマは好評(píng)を博することはできなかった。その主な理由は、井之頭五郎を演じたウィンストン?チャオが単なる臺(tái)灣地區(qū)のグルメ番組のリポーターのようだったからだ。毎回、「この店とても有名なんだよ」と言って、料理を注文し、「やっぱりおいしいね」と言いながら食事をし、お金を払って帰るというのがお決まりのパターンだった。どんなにおいしい料理でも、それを一気に平らげ、すぐに次の店に行くというなら、臺(tái)灣地區(qū)の名物B級(jí)グルメを紹介する番組と変わらないのではないだろうか。誰(shuí)にも邪魔されずに、食べることに完全に沒頭している雰囲気が全くなく、「一人で食事をする」醍醐味が完全に消えてしまっていた。
井之頭五郎が一人でひたすら食事をする姿は、「時(shí)間や社會(huì)に束縛されることなく、ゆっくりとお腹を満たし、その時(shí)間だけは自分の好きな事だけをし、誰(shuí)にも邪魔されることなく、『自由』を楽しみ、全てのストレスから解放されてただひたすら食べるという時(shí)間こそ、現(xiàn)代人に平等に與えられた最高のいやしの時(shí)間」ということを悟らせてくれる。
そのような時(shí)、「孤獨(dú)」を「楽しむ」ことができる。つまり、一人で食事をするというのは、癒しが得られる時(shí)間なのだ。(次回につづく)(編集KN)
「人民網(wǎng)日本語(yǔ)版」2017年5月24日
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