人文社會(huì)論叢 日中友好中國(guó)大學(xué)生日本語(yǔ)科卒業(yè)論文コンクール特集號(hào)
巻頭言
幕末の志士吉田松陰は、「學(xué)問(wèn)とは、書(shū)物に書(shū)かれた『過(guò)去』を?qū)Wぶことではない?!含F(xiàn)実』と向き合い、世界の時(shí)局を知ることに、他ならない」と話しております。また、AI 時(shí)代の學(xué)びは、急激な変動(dòng)とスピードが求められ、生涯學(xué)習(xí)が常態(tài)になる中での大學(xué)教育の役割は、學(xué)びの方法論を確立することに盡きると思います。そして、大學(xué)での學(xué)問(wèn)とは、知のフロンティアへの橋頭堡であり、大學(xué)での教育とは、多くの人材を、フロンティアに導(dǎo)く為の訓(xùn)練であり、大學(xué)で學(xué)ぶべきは、推論と議論の方法であり、実踐であります。(作者は特定非営利活動(dòng)法人日中友好市民倶楽部理事長(zhǎng)?小野寺?。?/span>
ところで、戸惑い焦りながらも、學(xué)問(wèn)と言う名の「豊穣な?!工似W(xué)徒に、一筋の光を頼りに荒海に漕ぎ出す勇気を與え、研ぎ澄ました精神を鍛えて、學(xué)びの愉しさに導(dǎo)くことが、本編集の願(yuàn)いでもあります。小林一茶は、「けふからは 日本の雁ぞ 楽に寢よ」と謳っており、晩秋になると、遙々海を越えて、北方から日本に渡って來(lái)る雁は、日々の勉學(xué)と競(jìng)爭(zhēng)に明け暮れて、羽を休めたい學(xué)生にも似ており、暖かい日本語(yǔ)教育界の中で、知性と優(yōu)しさを蓄え、世界の大空へと大きく羽ばたいて欲しいものです。
なお、學(xué)問(wèn)の方法としては、全體を扱うことは出來(lái)ないので、斷片を切り取って分析をしますが、その切り取り方が上手であれば、核心に迫り得るので、その切り取り方がポイントであり、これを別の言葉で言えば、「テーマ選定の巧拙」です。したがって、論文作成とは、切片を切り取り、全體狀況を推測(cè)する作業(yè)ですが、結(jié)果は、切り取った切片の部位に依ります。そこで、核心に迫り得る切片の切り取り方が、論文の成否を左右致します。そして、核心に迫り得れば、普遍的価値を持つことになり、此れこそが學(xué)問(wèn)の醍醐味であります。ちなみに、細(xì)部から全體を推論するのが、現(xiàn)代の學(xué)問(wèn)手法ですが、細(xì)分化されて専門(mén)領(lǐng)域が狹まった結(jié)果、知への懐疑や大學(xué)教育の限界が、指摘され始めております。それは、そもそも「知」とは、古代ギリシャの時(shí)代から、人生を豊かにするものであり、知が専門(mén)化や細(xì)分化されることにより、知が本來(lái)持つ豊かさが、失われてしまうからです。
そこで、直ぐ役立つことは、直ぐに役立たなくなりますので、哲學(xué)?文學(xué)?歴史等人類(lèi)の叡智に觸れて、豊かな感性を育み、人間性を高めるとが、なによりも大切です。また、「人生は、果敢に立ち向かう冒険である。そうでなければ何の意味もない」とヘレン?ケラーは、述べております。かくて、知性とは、既成の答えを暗記して、冒険を避けることではなく、色々な問(wèn)題を解決する方法を?qū)Wび、新たな問(wèn)題や更に大きな問(wèn)題を、解決する力量を養(yǎng)うことです。なお、真の知性の本質(zhì)は、失敗することに対する恐怖を克服して、果敢に學(xué)ぶ姿勢(shì)と學(xué)ぶ喜びにあります。
結(jié)びに、意欲的に學(xué)び愉しく実踐することにより、日本語(yǔ)學(xué)習(xí)者の皆さんが、社會(huì)の木鐸として、未來(lái)を切り拓くことを念じ、「L ebe so,wie du denkst!(爾が考えている如く生きよ!)」を、 餞はなむけの言葉として贈(zèng)ります。
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「人民網(wǎng)日本語(yǔ)版」2020年6月17日