「平野啓一郎」という名前は、中國の日本文學ファンには、あまり聞きなれない名前であろう。だが、1999年、この名は日本の文壇を突然騒がせ、社會的な話題になった。當時若干23歳で、京都大學の學生だった平野啓一郎氏は処女作「日蝕」で、日本純文學の最高峰である第120回芥川賞を受賞。當時の受賞者最年少記録を更新し、日本文學評論界では「三島由紀夫の再來」とささやかれた。同年、「日蝕」の売上は56萬部を記録し、文學界の新人ジャンルでは「超ベストセラー」となった。引き続き、平野氏は第2作となる「一月物語」を発表した。日本古典小説風の同作品は、フランス語、スウェーデン語、アラビア語、韓國語などの言語に次々と翻訳された。その後彼は、「葬送」、「決壊」、「ドーン」などの一連の作品を発表。フランス蕓術文化勲章や蕓術選奨文部科學大臣新人賞を受賞し、1970年代生まれの日本人作家の中でも名実ともに備わった中堅作家となった。平野氏が昨年発表した「マチネの終わりに」も、16回重版を繰り返すベストセラーとなり、渡辺純一文學賞を受賞した。(文:邵劼。光明網(wǎng)掲載)
若い頃に名を成したこの天才作家をめぐり、彼が有名になった経緯や少年時代のエピソードは、ずっと世間の注目を集めてきた。だが、日本メディアの取材に対する彼の答えは、最初の頃は意外なものだった?!感·丹ろ暏?、読書が大嫌いだった。それよりも運動場で野球やサッカーに興じる少年だった」と平野氏は話した。
彼の答えに、我々はつい好奇心を抱いてしまう。このような少年時代を過ごした彼が、一體なぜ最終的に作家の道を選んだのだろう?平野への取材記録から、転機が訪れたのは、彼が中二の時に電車の中で三島由紀夫の小説「金閣寺」を読んだ時だったことが判明した。この小説を読了したことをきっかけに、平野の読書に対する興味が高まっていく。高校時代は、トーマス?マン、ボードレール、ドフトエフスキー、澁澤龍彥、大江健三郎らの作品を読みふけった。京都大學入學後は、西洋哲學や宗教學に興味を抱くようになり、ミルチャ?エリアーデ、マルティン?ブーバー、トマス?アクィナスらの著作を、大學の図書館から借りて読んだという。
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