中國文化は日本文化に大きな影響を與えている。特に、文學(xué)の分野における影響が大きい。日本に大きな影響を與えた文學(xué)家に、中國明朝末期の小説家?馮夢龍(ふうむりゅう)がいる。馮夢龍の著作の多くは日本でも出版されており、うち、最も大きな影響を與えたのは白話小説を編纂した「三言」だ。 蘇州日報が報じた。
日本では18世紀に「三言」ブームが起きた。當(dāng)時、三言二拍から抄訳した岡白駒の「小説精言」(1743)、「小説奇言」(1753)、沢田一斎の「小説粋言」(1758)が刊行され日本の「小説三言」となった。同3作は、それぞれ「三言」の4-5編を選び、原文に漢文訓(xùn)読の符號を加えている。日本人にとって白話は理解が難しいものの、「左訓(xùn)」を添えると、訓(xùn)読できるようになり、「三言」原文の意味も理解できるようになる。
同時期、「三言」 を翻案した作品もたくさん登場した。その內(nèi)容やあらすじはそのままで、人名や地名などは日本に合わせて翻訳した作品だ。そのような作品で特に有名なのが上田秋成の「雨月物語」だ。
日本で、馮夢龍の名前が広く知られるようになる上で、もしかすると「雨月物語」が大きな役割を果たしたのかもしれない?!溉浴工闻fバージョンの多くは日本でもたくさん保存されている。「三言」のほか、馮夢龍が編纂した「三教偶拈」は、儒教の王陽明、仏教の済顛禪師、道教の呂洞賓を主人公とした白話小説三編からなる小説集で、東京大學(xué)東洋文化研究所に絶版の孤本が収藏されている。うち、「王陽明出身靖亂録」は江戸時代に出版されたものだ。馮夢龍が編纂した福建省壽寧県の地方志「壽寧待志」などの著作も日本にしか殘存していない。馮夢龍が編纂した笑話の集大成「笑府」も日本に伝わった後、翻刻本が相次いで出版された。また、「まんじゅうこわい」は、原作をほとんど流用して落語のネタとなっている。
江戸時代から明治時代まで、馮夢龍の著作は日本で、訳本、刻本の形式、または日本語の読本として出版され、人気となった。しかし、馮夢龍自身の研究となると、大正15年(1926年)8月から10月の學(xué)術(shù)誌「斯文」第八編第五號、第六號、第七號に連載された漢學(xué)者?塩谷溫の論文「明代小説『三言』に関して」が最初だろう。當(dāng)時の東京帝國大學(xué)の教授だった塩谷溫は、內(nèi)閣文庫などの図書館に所蔵されている「三言」を見つけ、それを紹介した。それにより、「三言」そのものが日の目を見るようになった。塩谷溫のこの論文は、汪馥泉によって中國語に翻訳され、1930年に出版された「中國文學(xué)研究訳叢」に収録された。その後、塩谷溫の教え子である辛島驍や長沢規(guī)矩なども、尾張徳川家の舊蔵書などの文獻資料を所蔵する公開文庫?蓬左文庫に所藏されていた「警世通言」(金陵兼善堂本)や大連図書館に所藏されていた「警世通言」などを相次いで発見し、紹介した。
塩谷溫は、東京帝國大學(xué)の教授で、東京帝國大學(xué)は現(xiàn)在の東京大學(xué)だ。筆者の先生である尾上兼英氏も馮夢龍の「三言」を研究する専門家だ。東京大學(xué)では、馮夢龍を研究する伝統(tǒng)がずっと続いていると言えるだろう。
蘇州馮夢龍記念館がオープンし、筆者は馮夢龍の作品の日本に対する影響の大きさを思い出すと同時に、中國人にもその點を知ってもらいたいと思った。そして、自分が所藏している「三言」の日本の刻本「小説精言」や「刪笑府」などを馮夢龍記念館に寄贈することにした。それらが、永遠に中日の友好の記念になることを願っている。
大木康:元広島大學(xué)文學(xué)部準教授、元東大文學(xué)部準教授?,F(xiàn)在、東京大學(xué)東洋文化研究所教授。中國明清文學(xué)や明清江南社會史を研究している。(編集KN)
「人民網(wǎng)日本語版」2017年9月27日
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