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2014年6月24日  
 

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日本はなぜ戦爭(zhēng)の記憶を恐れるのか  (2)

人民網(wǎng)日本語(yǔ)版 2014年06月24日10:08
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 このような國(guó)民性には恐るべきものがある。ファシスト側(cè)にあって同じく敗戦國(guó)となったドイツでは、ナチスの犯罪の証拠を世界から集める専門の係が今でも置かれ、謝罪と補(bǔ)償の努力が盡くされている。かつての首相のウィリー?ブラントがユダヤ人犠牲者の記念碑の前で跪いたことは世界のニュースとなった。だが南京の犠牲者30萬(wàn)人は70年余りが過(guò)ぎた今も、日本の政治家の言い逃れを聞き続けなければならないのである。

 「アウシュヴィッツ以後、詩(shī)を書くことは野蠻である」。人類を襲った悲慘を前に、哲學(xué)者アドルノが語(yǔ)ったこの言葉は、この時(shí)期の苦難の歴史に対する西洋世界の眼差しを示す古典的反省として知られる。さらにノーベル賞作家のギュンター?グラスは、「アウシュヴィッツ以降の創(chuàng)作は、詩(shī)であれ散文であれ、歴史を覚えておくため、不幸の再演を防ぐため、歴史を終わらせるためというあり方でしかあり得ない」としている。

 「南京大虐殺以降」はどうだろうか。詩(shī)を書くことは同様に野蠻である。中國(guó)人の心の中で受け止めきれない重さを持つからだ。だが記憶は伝えなければならない。私たちが伝えていくべき記憶は、観點(diǎn)でも主張でもない。一枚一枚の寫真、一件一件の文書、一本一本の映像である。事実を前に観點(diǎn)は余計(jì)だ。

 もしも世界にこうした記憶を殘さなければ、未來(lái)の人々は、これら30萬(wàn)のこの地を生きた者たちを語(yǔ)るすべをなくすだろう。真実の記憶を殘しておかなければ、こうした殺戮がこれからの世界を害することをいかに防ぐことができるだろうか。

 日本の一部の人々が恐れるこの時(shí)期の記憶は、その記憶が存在しないことを示してはいない。日本がその國(guó)民性においてこの記憶を回避しようとすることは、私たちがこうした無(wú)理な要求に耳を傾けるほどの善良さを持ち合わせなければならないことを意味してはいない。(編集MA)

 「人民網(wǎng)日本語(yǔ)版」2014年6月24日


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