「日本の侵略戦爭は背景に過ぎないとはどういうことだ。侵略戦爭は、広島に原爆が落とされた根本的な原因だ」。1日正午、筆者が広島平和記念資料館の館長を取材していた際、隣で聞いていた由木栄司さん(60)は怒りに震えていた。被爆者である父親を持つ由木さんは、これまで多くの時(shí)間を、戦爭の真相を伝えたり、日中の友好を促進(jìn)するために費(fèi)やしてきた。広島駅近くにある店で由木さんが取材に応じてくれた。 揚(yáng)子晩報(bào)が報(bào)じた。
南京の雨花臺を訪れた際の記念寫真(由木さんは後列左から6人目)
中國のラジオを通して真相知る
1955年、日本海軍の大本営があった広島県呉市で生まれた由木さんは、中學(xué)生の時(shí)に、偶然のきっかけから、自分の部屋で中國のラジオ「北京放送」を聞くようになった。この日本語のラジオ番組を通して、第二次世界大戦の真相を知るようになったという。
多くの被爆者と異なり、由木さんの父親は広島に原爆が落とされたときの狀況を由木さんが子供の時(shí)から聞かせていた。由木さんの父親は17歳だった1945年、軍の工場で働いていた。そして、原爆が落とされてから3日目に現(xiàn)場に入り、5日間働いて放射能を浴びることになった。父親が目撃した慘狀を聞き、由木さんは心を深く痛めた。71年、由木さんと仲間は「中國研究會」を立ち上げ、「中日友好協(xié)會」に加入した。「同協(xié)會の仁井田教一さんの家で、南京大虐殺の資料を目にした。そして、それを借りて、學(xué)校で展示會を開いた。中國の革命歌劇『紅色娘子軍』やドキュメンタリー『南京長江大橋』を同級生に見せたこともある。塚越正男さんに會うまでは単に興味があっただけだった」と由木さん。
第二次世界大戦中、舊日本陸軍第59師団の兵士だった塚越さんは中國で戦爭捕虜となったものの、人道的な対応を受けた。56年、塚越さんは中國の寛大政策で帰國を果たし、翌年57年に、「中國帰還者連絡(luò)會」を立ち上げ、事務(wù)局長として活動するようになった。塚越さんは由木さんに、舊日本軍が中國で行ったことをはっきり伝えたという。70年以降、さらに多くの、戦爭犯罪人として抑留されていた舊日本軍の軍人が帰國するようになると、同連絡(luò)會は、生活のサポートをし、帰國者が証言する講演會などを200回以上開催し、真相をさらに多くの人に伝えてきた。
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