盧溝橋事件後、中國は同盟外交を積極的に展開した。しかし、ソ連を除く米國?英國などは日本に対して宥和政策をとった。1941年12月、太平洋戦爭が勃発した日、中國は米國?英國?ソ連などに対して軍事同盟を結(jié)ぶことを建議、ついにこれらの國から承諾を得た。1942年1月1日、米國?英國?ソ連?中國を中心とする侵略反対國が「連合國共同宣言」を発表、世界反ファシズム連合が正式に創(chuàng)設(shè)された。中國の外交努力がついに報(bào)われ、中國は4大國の1つとして認(rèn)められることとなった。
中國はその後も、米國、英國、ソ連と共に戦後の國際秩序の再建に加わった。1943年12月には中米英が「カイロ宣言」を発表した。1945年2月、米英ソ3カ國の首脳はヤルタ會(huì)談で國際連合の設(shè)立について協(xié)議、米英仏ソ中の5カ國を安全保障理事會(huì)常任理事國とすることを決定した。7月26日には中米英の3カ國が「ポツダム宣言」を発表、「カイロ宣言の條項(xiàng)は履行されるべきであり、日本國の主権は本州、北海道、九州および四國と我らの決定した島嶼に限定される」ことが規(guī)定された。上述の一連の首脳會(huì)議における決定と、調(diào)印された協(xié)定、発表された宣言などが、戦後の新國際秩序の枠組みを構(gòu)成することとなった。(編集SN)
「人民網(wǎng)日本語版」2015年8月6日
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