「習(xí)近平?馬英九會談」で習(xí)近平総書記は両岸は「骨が斷ち切られても筋がつながっている」兄弟だと指摘した。この「筋」は民族の感情であり、文化的つながりであり、「92年コンセンサス」をイメージ化した表現(xiàn)だと筆者は見る。今回の「習(xí)近平?馬英九會談」では習(xí)総書記の「4つの意見」も馬氏の「5つの主張」も、まず「92年コンセンサス」の重要性を繰り返し強(qiáng)調(diào)した。(文:任成琦?本紙編集者。人民日報海外版コラム「望海樓」掲載)
「92年コンセンサス」の重要性は、「1つの中國」の原則を體現(xiàn)し、両岸関係の根本的性質(zhì)を明確に定義したと同時に、両岸関係の平和的発展の政治的な基礎(chǔ)だということにある。「92年コンセンサス」は決して新しい物ではないが、習(xí)近平、馬英九両氏が両岸の指導(dǎo)者として顔を合わせて確認(rèn)したことはやはり史上初の事であり、両岸関係の將來の安定的発展にとって重要な意義を持つ。
両岸の指導(dǎo)者が連攜して「92年コンセンサス」を確認(rèn)したことは決して余計な事ではない。「92年コンセンサス」に対する島內(nèi)の一部の非難さらには否認(rèn)の聲が止んだことはないからだ。これを國共両黨間の合意と歪曲する者もあり、「20年以上前のコンセンサスをなぜ今日の討論の基礎(chǔ)にするのか」と疑問を呈す者もあり、いわゆる「臺灣コンセンサス」「一五コンセンサス」によって人々を欺き取って代えようとする者もいる。もちろん、最も人々を惑わせるのは「現(xiàn)狀維持」説であり、「92年コンセンサス」を回避して「新たな道」を歩もうとするものだ。だが「92年コンセンサス」という政治的道しるべの正しい導(dǎo)きがなければ、両岸交流が袋小路に入るのは必至だ。
この點から見て、新たな時代と歴史の節(jié)目において、「習(xí)近平?馬英九會談」は両岸関係の將來の基調(diào)を定め、共通認(rèn)識の平坦な道からそれる危険を防ぐものでもある?!?つの中國」の原則を體現(xiàn)した「92年コンセンサス」は「臺灣獨立」勢力に対する金縛りの法のようなもので、後任の島內(nèi)指導(dǎo)者は誰であろうと、かつての李や陳のようにほしいままに海峽両岸に波瀾を引き起こすことはできない。きっぱりと悔い改めて正しい道に戻るためのパスワードは「92年コンセンサス」にほかならない。今回の「習(xí)近平?馬英九會談」は會談の常態(tài)化、制度化の初歩的な模索と見ることもできるとの指摘がある。われわれはそうなることを希望する。両岸指導(dǎo)者の會談の制度的な常態(tài)化は両岸のコンセンサスを揺るぎないものにし、深化するうえでプラスだ。大陸の政治文脈の言葉を借りて言うなら、「92年コンセンサス」の堅持は指導(dǎo)者の交代により変わるものではなく、指導(dǎo)者の見解と注意力の変化により変わるものではない。習(xí)総書記が今回の會談で述べたように、臺灣のどの黨派、団體であれ、過去の主張がどうであれ、「92年コンセンサス」の歴史事実を直視し、認(rèn)め、その核心的內(nèi)容を認(rèn)めさえすれば、大陸は交流する意思がある。國家の主権と領(lǐng)土の一體性の維持という原則的問題において、大陸の意志は非常に堅固であり、態(tài)度は終始変らない。骨が折れたのは歴史的な怨恨?紛爭によるものであり、血脈が相通じてさえいれば再びつなぐことができる。筋も斷ち切りたいと思う者がいるのなら、それは血を分けた兄弟の恩情を斷ち切るものであり、両岸の中國人は絶対に受け入れられない。(編集NA)
「人民網(wǎng)日本語版」2015年11月9日
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