近年、日本政府は釣魚島(日本名?尖閣諸島)の主権の帰屬をめぐる認(rèn)識において中日間に爭いがあることを否認(rèn)する一方で、釣魚島問題における宣伝を強(qiáng)化し続けている。日本は先日、內(nèi)閣官房のウェブサイトに資料畫像を公開し、釣魚島は日本「固有の領(lǐng)土」だと妄言を吐いた。日本側(cè)のぶち上げたいわゆる証拠は、史実に著しく反しているか、中國側(cè)の立場を歪曲しているかであり、全くもって自他共に欺くものだ。中日関係に対する悪影響を排除し、中日両國民の友好的感情を強(qiáng)化するために、日本側(cè)の誤った見解に反論し、これを正す必要がある。(文:劉江永?清華大學(xué)國際関係研究院教授)
(1)甲午戦爭前に日本政府は釣魚島が中國に屬することを認(rèn)めていた
日本政府は釣魚島及びその附屬島嶼(日本名?尖閣諸島)がかつてはいわゆる「無主の地」であり、1885年に再三調(diào)査して中國人による統(tǒng)治の痕跡が見られなかった後に占有を決定したのであり、領(lǐng)土に関する「先占の原則」に合致するものだと繰り返し喧伝している。これは全くのでたらめだ。
第1に、日本が1895年にこれらの島嶼を盜み取るまで、釣魚島は中國の無人島だったのであり、いわゆる「無主の地」では斷じてなかった。中國の王朝側(cè)史書の記述によると、明朝の洪武五年(1372年)より、中國明朝の冊封使らが釣魚島及びその附屬島嶼を琉球國へ渡航する際の海上航路標(biāo)識とするとともに、張赫、呉?guī)蚺汕菠分蹘煠蚵胜い坪I辖煌筏蚴丐辍ⅳ长欷椁螎u嶼を中國の海防の範(fàn)囲に組み入れた。中國は清朝からこれらの島嶼を臺灣府噶瑪蘭庁(現(xiàn)宜蘭県)の管轄下に置いた。清政府の初代巡視臺灣監(jiān)察御史、黃叔ケイ(ケイは王偏に敬)は釣魚島を視察したうえ、報告である『臺海使槎録』に記載した。
第2に、1874年の臺灣への初侵入から1894年の甲午戦爭(日清戦爭)発動までの20年間に、日本の海軍省が作製した『清國沿海諸省』および刊行した各種水路誌はいずれも、釣魚島、黃尾嶼(日本名?久場島)、赤尾嶼(日本名?大正島)を臺灣北東諸島と認(rèn)めている。日本の外務(wù)省、陸軍省も海軍省作製の地図を相次いで確認(rèn)している。1885年、日本が琉球國を併呑して沖縄県と改稱してから6年後、山縣有朋內(nèi)務(wù)卿は釣魚島など無人島への日本の標(biāo)識建立を沖縄県に2回密かに命じたが、これらの島嶼を占領(lǐng)すれば中國と衝突が起きる恐れがあるとして、沖縄県令と外務(wù)大臣に遠(yuǎn)回しに斷られた。もし彼らが當(dāng)時釣魚島及びその附屬島嶼を「無主の地」と認(rèn)定していたのなら、なぜ中國との衝突発生を懸念するのか?
このウェブサイトの著作権は人民日報社にあります。
掲載された記事、寫真の無斷転載を禁じます。
Tel:日本(03)3449-8257、080-5077-8156 北京 (010) 6536-3680