南京大虐殺を語る上で、避けて通ることができないのが悪名高い「百人斬り競爭」。1937年12月13日、日本の東京日日新聞は、日本陸軍少尉である向井敏明と野田毅の2人が、日本刀でどちらが早く100人斬るかを競ったという內(nèi)容の記事を報道した。戦後、極東國際軍事裁判において、この2人の日本人戦犯には正義の鉄槌が下された。
1947年12月18日、南京軍事法廷の最終判決で死刑判決を受けた向井敏明と野田毅、南京大虐殺の主犯である谷壽夫は、江蘇省南京市の雨花臺処刑場で死刑を執(zhí)行された。法廷に提出された証拠品である彼らが虐殺に使用した刀と法廷記録の原稿全ては當時南京軍事裁判の裁判長を務(wù)めた石美瑜によって保管されていたが、その後様々な経緯を経て、最終的に証拠品の刀は最近になって上海市の淞滬抗戦記念館に収蔵された。
遼寧省本渓市のあるコレクターはこのほど、南京大虐殺に関與したとされる中國侵略日本軍の日記とアルバム3冊を一般に公開した。これらの資料には、南京大虐殺に関する被害者や戦爭の詳細、日本軍の作戦路線図などが記されていた。日記の持ち主は、當時日本軍第16師団歩兵第30旅団第38連隊に所屬していた森岡周治。日記には1937年8月25日に森岡周治が中國へ渡ってから、1939年8月7日に日本へ帰國するまでの2年間の出來事が記されていた。その中には南京大虐殺に関する経緯について何度も言及されており、南京大虐殺に関するより詳細なエピソードを明らかにしている。(編集TK)
「人民網(wǎng)日本語版」2017年12月14日
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