4月11日午前、ケリー米國務(wù)長官や英國?フランス?ドイツなど各國の外相が、岸田文雄外相の案內(nèi)で、広島の平和記念公園を訪れた。今から71年前に米國が広島に原爆を投下して以來、米國務(wù)長官が今回初めて広島の原爆関連施設(shè)を訪れた。新華社が報(bào)じた。
だが、厳粛な面持ちのケリー長官らが、平和記念公園の原爆死沒者慰霊碑に獻(xiàn)花したとき、広島が世界で最初に原子爆弾が投下された都市であること以外に、歐米諸國にはほとんど知られていないもう一つの顔があることを、彼らは知る由もなかった。広島の「もう一つの顔」とは、日本の近代化に伴う一連の侵略戦爭の大本営であり、兵器工場や殘虐きわまる中國侵略部隊(duì)の駐屯地という顔だ。
1894年、日本は甲午戦爭(日清戦爭)を起こした。同年9月、明治天皇は「みずから出征」し、作戦司令部の大本営を広島に移し、帝國議會も広島で召集された。広島市內(nèi)には、今でも、辺境開拓?領(lǐng)土拡大という大義名分のもとに侵略戦爭を始めた明治天皇の「武功」を記念するために造られた「広島大本営跡」などの石碑が殘っている。
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