四川大地震の震源地となった映秀鎮(zhèn)の西南の一角にある倒壊した漩口中學(xué)校では、時(shí)が永遠(yuǎn)に2008年5月12日で止まっている。痛ましい被害をもたらした「5?12」ブン川大地震(ブンはさんずいに文)は、新中國(guó)成立以降、破壊力が最も強(qiáng)く、波及範(fàn)囲が最も広く、救助の難度が最も大きい地震だった。その被災(zāi)面積はスペインの國(guó)土に相當(dāng)し、被災(zāi)人口は北歐5ヶ國(guó)の人口の総和を超えた。
2005年に米國(guó)ニューオーリンズを襲ったハリケーンでは、10年経ってもまだ住む家のない被災(zāi)者が少なくなかった。2011年に起こった日本の東日本大震災(zāi)では、被災(zāi)地の至る所に今も震災(zāi)による破壊の爪痕が殘されている。甚大な自然災(zāi)害からの復(fù)興再建という世界の難題を前にして、震災(zāi)から3年後にブン川の人々は落ち著いて暮らし、働くことのできるふるさとを再建し、再び経済と社會(huì)に活力を注ぎ込んでいる。
このように、震災(zāi)後再建でブン川が示した「ブン川モデル」が世界を驚かせている。
再建された映秀鎮(zhèn)の様子(提供?ブン川県委員會(huì)宣伝部)。
地震発生後の救助活動(dòng)から復(fù)興再建に至るまで、やらねばならないことは複雑で數(shù)多く、被災(zāi)者の訴えは具體的で急を要し、そのすべてにおいて中國(guó)共産黨の執(zhí)政能力が試されることとなった。
2008年、地震発生後に黨中央は相次いで施策を決定し、指令を発した。地震後ただちに全國(guó)総動(dòng)員令を出し、國(guó)家一級(jí)緊急対応プランを発動(dòng)。ただちに各大軍區(qū)から部隊(duì)を招集し、全國(guó)の各種資源を被災(zāi)地救援に向けるよう手配した。地震から24日後、中共中央政治局は検討を経た上で、ブン川地震災(zāi)後復(fù)興再建「対口支援(比較的進(jìn)んだ自治體や企業(yè)などが特定の被災(zāi)自治體に対し一対一で行う支援、ペアリング支援)」を手配。地震から27日後、國(guó)務(wù)院は「ブン川震災(zāi)後復(fù)興再建條例」を公布。地震から37日後、國(guó)務(wù)院は「ブン川震災(zāi)後復(fù)興再建対口支援方案」を策定。地震から4ヶ月後には、震災(zāi)後再建全體計(jì)畫(huà)が正式に発表され、中國(guó)は「3年でほぼ復(fù)興、5年で発展振興、10年で全面的に『小康』(ややゆとりのある狀態(tài))へ」という震災(zāi)後復(fù)興再建の全體目標(biāo)を掲げた。
ふるさとが破壊されるという苦しみを経験し、親しい人を亡くす悲しみを味わった被災(zāi)地の基層黨員幹部は、誰(shuí)もが休暇を返上し、毎日晝も夜もなく業(yè)務(wù)をこなしていった。1年で、四川省各級(jí)基層黨組織は黨員計(jì)120萬(wàn)人を動(dòng)員して2萬(wàn)以上の支援チームを組織し、震災(zāi)後復(fù)興再建の第一線で活躍し、被災(zāi)者が家を建てる際の場(chǎng)所選び、ローン資金調(diào)達(dá)、心理カウンセリング、技術(shù)研修といった問(wèn)題を解決できるようサポートし、生産を回復(fù)し、ふるさとを再建した。