中國工程院の院士である天津中醫(yī)薬大學の張伯禮學長(72)は16日、82日間にわたって醫(yī)療活動に従事した湖北省武漢市から、高速鉄道で天津に戻った。
帰ってきた「英雄」を迎える車両を警護するバイク隊
72歳でハイリスクのミッション
春節(jié)(舊正月、今年は1月25日)の翌日に當たる1月26日夜、天津で、新型コロナウイルス感染拡大防止対策の指導に當たっていた張學長は、中央政府の新型コロナウイルス感染拡大防止対策指導グループから武漢に向かうよう要請を受けた。
1月27日から、張學長は指定醫(yī)療機関や方艙醫(yī)院(臨時醫(yī)療施設(shè))、コミュニティで感染狀況を調(diào)査したほか、中醫(yī)薬による治療について研究し、その処方を制定し始めた。
張學長は以前、武漢へ行くことが決まった時の心境について、思わず嗚咽し、聲を詰まらせながらこう語ったことがある。
【張學長】當時の武漢は非常に深刻な狀況であることは知っていたし、心の準備もして、自ら手を上げてでも行きたいと思っていたが、実際に武漢へ來ることが決まった瞬間は…。
【記者】なぜその當時のことを思うと、それほどまでにこみ上げてくるものがあるのか?
【張學長】悲壯感からだ。なぜなら當時、すでに武漢の狀況は極めて深刻なことは知っていた。そして新型コロナウイルスについては、今とは比較にならないほど分かっていることは少なかった。私がすでに高齢なことは紛れもない事実。それにもかかわらず私を武漢に派遣させるということは、それほどまでに狀況は深刻だということ。でなければこんな年寄りを行かせるわけがない。
初の中醫(yī)學による治療センターである臨時醫(yī)療施設(shè)の立ち上げ
2月12日、張學長率いる中醫(yī)學「國家チーム」が江夏中醫(yī)方艙醫(yī)院での活動を開始した。
江夏中醫(yī)方艙醫(yī)院の熊侃副院長によると、総顧問である張學長は防護服を著用して、隔離エリアに入って回診し、患者の脈や舌苔(ぜったい)を見て、病狀をチェックした。午前中いっぱい回診すると、防護服の中は汗だくになっていたという。
張學長の防護服に「がんばれ」と書く男性スタッフ
張學長の指導の下、江夏中醫(yī)方艙醫(yī)院で2種類の中醫(yī)薬の処方が制定された。その後、同病院ではほぼ「各人につき1つの処方」が施されるようになった。
2月14日に運用が始まり、3月10日に閉鎖となるまでの26日間に、同病院では患者564人を受け入れ、392人が治癒して退院した。その他の患者は閉鎖後に江夏區(qū)人民病院と新型コロナウイルス肺炎患者受け入れ専門に建設(shè)された仮設(shè)病院?雷神山醫(yī)院に転院し、治療、経過観察を受けている。閉鎖まで、同病院では重癥化患者0人、一旦陰性になった後再び陽性になった患者0人、感染した醫(yī)療従事者0人だった。
江夏方艙醫(yī)院が閉鎖となり醫(yī)療従事者と記念撮影する張學長
「肝膽相照らす仲」の武漢に、膽嚢を「置いてきた」張學長
極度の疲労から、張學長は膽嚢炎を患ってしまい、2月19日早朝、武漢で膽嚢を摘出する內(nèi)視鏡手術(shù)を受けた。術(shù)後3日目にはまた仕事に戻ったという張學長は、「肝膽相照らす仲という言葉があるだろう?だから膽嚢を武漢に置いてきたんだよ」とユーモラスに語った。
張學長の息子も天津醫(yī)療チームのメンバーとして武漢入りしており、父親が體調(diào)を崩したことを耳にし、見舞いに行こうとしたところ、張學長は、「來なくていい。自分の受け持ちの患者の治療をしっかりするように」と斷ったという。
術(shù)後、張學長の両足には血栓癥が生じ、醫(yī)師から「少なくとも2週間は絶対安靜にするように」と告げられた。それを聞いて焦った張學長は、醫(yī)師の言うことをできるだけ聞いて、薬を多めにもらい、そして、最終的に1週間の入院で江夏中醫(yī)方艙醫(yī)院に戻ったのだという。
そして、今月16日午前、張學長は、82日間にわたり苦闘を繰り広げた武漢から高速鉄道で天津に戻った。
武漢駅で帰途に就く張學長(寫真中央)
武漢を離れる際、張學長は、「武漢は英雄の都市。武漢の市民は多大な貢獻をした。でも、もうしばらく我慢を続けなければならない?,F(xiàn)在、武漢市は中國全土で一番安全な都市だ。私たちは武漢で、教え子もできたし、専門家による診療所も設(shè)置した。今後は2ヶ月に1回は武漢に來て、武漢と『親しく付き合う』」と語った。(編集KN)
「人民網(wǎng)日本語版」2020年4月17日