自社商品の特許証明書と表彰狀を披露する李社長 ▽1本の刀を磨き続けた10年間 開発した漢方食品が日本市場で認(rèn)められる 李さんは日本で中國醫(yī)學(xué)を広めるという構(gòu)想を少しずつ形にしていった。李さんは次のように話す。ライフスタイルをみると、日本は第二次世界大戦後の高度成長期に、歐米の食習(xí)慣を大量に取り入れ、摂取する栄養(yǎng)が過剰になり、夜型化がどんどん進行した。こうして現(xiàn)代の日本人は一連の「生活習(xí)慣病」に見舞われるようになった。西洋醫(yī)學(xué)では「生活習(xí)慣病」に対する効果は限定的で、李さんは中國醫(yī)學(xué)の商品を研究開発し、中國醫(yī)學(xué)を広めるチャンスだとみた。
學(xué)習(xí)と研究を経て、李さんは「新誼漢方健康食品」のコンセプトをうち出した。これは中國醫(yī)學(xué)の漢方薬の理論を土臺とし、現(xiàn)代の日本人の體質(zhì)に焦點を定め、日本の法律?法規(guī)に合致することをルールとした三位一體の漢方薬健康食品だ。李さんは當(dāng)初より製品の開発に力を入れ、國內(nèi)外の大學(xué)や研究機関と協(xié)力を展開し、科學(xué)研究を土臺として民間に伝わる伝統(tǒng)的な方法を改良した。
李さんによると、最初の商品の開発の道のりが最も大変だった。日本の厚生労働省の認(rèn)可を得るまで一年以上かかった。毎月各種の研究報告を提出しては難癖を付けられて卻下された。認(rèn)可は不可能にみえた當(dāng)時の狀況の中で、李さんはこつこつと努力を重ね、技術(shù)的難関を乗り越え、最終的に認(rèn)可を取得した。
認(rèn)可を得ると、次は販売面での課題にぶつかった。李さんは當(dāng)時の商品販売の様子を次のように語った。當(dāng)時の販売窓口は東京の新宿で借りた屋臺スペースで、商品をいっぱいに並べ、チャイナドレスを著て、新宿駅から出てくる人の波に向かって「いらっしゃいませ」と大聲で叫んだ。3日間続けたものの、目をとめる人はなく、商品は1箱も売れなかった。
それから10數(shù)年にわたる努力を経て、李さんの信宜會社は日本市場で新天地を切り開いた。他企業(yè)のブランドを請負(fù)生産した類似の商品や他企業(yè)が模造した同類の商品を含め、同社は今や數(shù)十種類の商品を販売するようになり、日本市場でブランドが認(rèn)められるようになった。
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