株式會社信宜の李寶珠社長 現(xiàn)代のライフスタイルの急速な変化にともない、これまで日本であまり人気のなかった漢方薬が、このところ再び重視されるようになっている。こうした背景の下で次のような人々が登場してきた。時代とともに前進(jìn)し、広大で奧深い中國醫(yī)學(xué)に改良を加え、日本に伝えようとする人々だ。人民網(wǎng)日本語版のインタビュー企畫「日本からニイハオ!」でインタビューに応じてくれた株式會社信宜の李寶珠社長は、まさしく日本で現(xiàn)代の中國醫(yī)學(xué)を伝える先駆者で、遠(yuǎn)隔地の農(nóng)村の「裸足の醫(yī)者」から、中國と日本に工場と研究開発センターを擁する企業(yè)家になった人物だ。李社長の創(chuàng)業(yè)の道のりはどのようなものだっただろうか。
▽人生の理想は「裸足の醫(yī)者」から海外で中國醫(yī)學(xué)を伝えるようになること 李社長は子どもの頃、他の子どもと同じく、映畫で農(nóng)村醫(yī)療に従事する裸足の醫(yī)者を見て尊敬の気持ちを抱き、いつか自分もそうなるのだと夢に描いていた。そこで中學(xué)校に入ると、病院に日參して醫(yī)學(xué)の基礎(chǔ)知識を勉強(qiáng)した。
高校を卒業(yè)すると、青年知識人として四川省邛崍県に下放され、人口4千人ほどの村で裸足の醫(yī)者を4年間務(wù)めた。當(dāng)時、青春のまっただ中にあった年若い李さんは、事業(yè)を興すことを夢見て、日々の農(nóng)作業(yè)と高齢者のケアが終わると、夜は懸命に勉強(qiáng)した。高齢者は西洋醫(yī)學(xué)よりも中國醫(yī)學(xué)を抵抗なく受け入れるため、當(dāng)時の李さんはさまざまな中國醫(yī)學(xué)の知識を身につけることになった。
文化大革命が終わると、李さんは天津市の南開大學(xué)に入學(xué)し、卒業(yè)後は大學(xué)にとどまって教壇に立った。その後、日本に留學(xué)し、改革開放後の出國ラッシュの中の一員になった。中國と日本の大學(xué)の経済學(xué)修士と歴史學(xué)修士の學(xué)位をもつ李さんは、自分のことを「學(xué)問をする器ではない」と言い、専門とは関係のない仕事をしていると笑う。実際、醫(yī)者として人に向き合い病気を治すという夢を忘れたことは一時もなかったという。
李さんは日本滯在中、日本人が中國醫(yī)學(xué)文化を含む中國文化を非常に尊敬していると感じた。だが日本人は中國醫(yī)學(xué)や漢方薬に関する知識が極めて乏しく、病気になって初めて病院に行き、自分で自分の體を調(diào)節(jié)することを知らないとも思った。李さんは當(dāng)時、自分の知っている中國醫(yī)學(xué)の知識に基づいて、周りにいる日本人に薬膳のちょっとした知識をよく教えていた。教わった日本人からは驚きと賛嘆の聲が上がったという。李さんはたくさんの人から、もっている知識を利用してより多くの人を助けるよう薦められた。これはまさしく李さんが考えていたことでもあった。
起業(yè)という構(gòu)想を抱くようになった李さんにとって、技術(shù)市場を知り盡くした自身の父親が最も力強(qiáng)い支援者だった。當(dāng)時の中國は外國から一連の廃棄された工業(yè)製品や中古の工業(yè)製品を輸入していた。父親は李さんに、「このような海外のがらくたで中國人から金を稼いではいけない。自分の力で外國に足場を見つけ、外國人から金を稼ぐべきだ」と話した。父の教えを胸に、李さんは中國醫(yī)學(xué)や漢方薬を海外で広めようという信念をますます堅(jiān)いものにした。
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