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中國の作家?方軍氏が「蘆溝橋事件」と最後の事件體験者について語る (2)

人民網(wǎng)日本語版 2014年07月03日08:46

 4枚目は私にとって特に重要な寫真です。事件70周年の際、私は何人かの友人とともに、七七事変(盧溝橋事件)を體験した29軍の兵士を招いて、北京の盧溝橋に集まってもらうという活動を行いました。7年が経過し、この方々の中でまだ話ができるのは、今年95歳になる沈甸之さんだけです。中央のこの方もご存命で106歳におなりですが、お話はできません。そのほかは皆さんお亡くなりになりました。亡くなってもその物語は殘ります。それを収録したのが「最後一次集結(jié)」(最後の集結(jié))という本で、日本でも出版されました。29軍の元兵士の記録で、大隊長から兵士までの証言が収められています。

 これら4枚の寫真は、盧溝橋事件の全過程を完全に示しています。

事件が持つ3つの意義 中國侵略日本軍滅亡への一歩

司會者:中國に謝罪に來る日本兵がいますが、こうした人々はどのような精神的な苦しみを経験しているのでしょうか。戦爭後にその體験を振り返る時、戦爭はどのように理解されているのでしょうか。

 方軍:元日本軍の兵士に本多立太郎という人がいました。1940年に中國にやって來て、部隊とともに南京に赴き、南京から江蘇省の金檀県に行って駐屯します。ある時、中國側(cè)の新四軍の十?dāng)?shù)人が日本軍に捕まりました。これらの兵士が縛られ川辺に連れられて行く時にも、周囲ではまだ銃聲が響いていました。日本軍の小隊長は、捕虜をすべて殺すよう命じました。本多氏は中國に來たばかりで人を殺したことがありません。しかし小隊長は銃を本多さんの頭につきつけ、殺さなければお前を殺すと脅しました。日本兵の前には、縄で縛られた中國人捕虜が一人ずつ並べられました。夕陽が照る中、本多氏はその捕虜の腹に刀を突き刺しました。捕虜の人は一聲うめき、川に転げました。川は赤く染まっていました。本多氏は日本でたびたび講演し、このことを話しました。中國人には一生すまないと考えていたのです。本多氏はその後、江蘇省金檀県に行き、10數(shù)人の新四軍の戦士のために碑を立て、跪いて懺悔しました。

 今日の私たちの主題は、「七七事変」(盧溝橋事件)の77周年です。この事件には3つの大きな意義があると考えます。第一に、中國侵略戦爭の全面的勃発。第二に、抗日戦爭の全面的開始。第三に、日本帝國主義の滅亡への始まり。七七事変後、日本は中國の大部分を迅速に占領(lǐng)しましたが、それは日本の強大さを示すものとはなりませんでした。日本は日増しに衰退し、真珠灣事件以降はそれがますますはっきりしてきました。日本人もこの歴史をしっかりと覚えておかなければならず、中國の歴史も日本の歴史も簡単に忘れてはなりません。中國の歴史と日本の歴史とは緊密につながっています。百年少し前からの戦爭史、甲午海戦(日清戦爭)からこの中國侵略戦爭までの歴史は、両國民に巨大な苦しみをもたらしました。今日持ってきたものの中には、日本兵が使った銃剣や軍用マット、飯盒、さらに砲弾、鉄兜、軍帽などがあります。70年余りが経った今も、刀はまだ鋭さを保っています。


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