このほど遠(yuǎn)山さんが暮らし、働いていた鳥(niǎo)取県に取材に訪れた。
取材に応じた鳥(niǎo)取市企畫(huà)推進(jìn)部文化交流課の山田雅一課長(zhǎng)によると、「日本砂漠緑化実踐協(xié)會(huì)は毎年、全國(guó)各地のボランティアがクブチ砂漠に行って植樹(shù)することを企畫(huà)している。今年の緑化活動(dòng)は7、8、9月に展開(kāi)される。1回6日間で、一人當(dāng)たりの費(fèi)用は17萬(wàn)8000円、全額自己負(fù)擔(dān)」とその活動(dòng)を紹介。
山田課長(zhǎng)は07年に鳥(niǎo)取大學(xué)、鳥(niǎo)取環(huán)境大學(xué)、鳥(niǎo)取県などと共同で、「クブチ砂漠植樹(shù)活動(dòng)支援會(huì)」を立ち上げ、毎年學(xué)生らがクブチ砂漠に行って植樹(shù)するよう企畫(huà)し、遠(yuǎn)山さんの精神を引き継いで、中日友好を促進(jìn)している。
中國(guó)での植樹(shù)を通じて行う侵略の歴史の償い
日本砂漠緑化実踐協(xié)會(huì)の石田敏光理事は、「日本は過(guò)去に中國(guó)に対して侵略戦爭(zhēng)を起こしており、許されない戦爭(zhēng)犯罪を犯した。遠(yuǎn)山さんはずっとそれに心を痛め、晩年は中國(guó)での植樹(shù)を通して、侵略の歴史の償いをしたいと考えていた」と述べる。
石田理事は以前、遠(yuǎn)山さんと共に中國(guó)に行って植樹(shù)をした経験があり、遠(yuǎn)山さんは、忍耐強(qiáng)く、確実に行動(dòng)する人だったというのがその印象だったといい、「遠(yuǎn)山さんは、『砂漠緑化の理論を研究をしている人はたくさんいるが、実際に行動(dòng)をしている人は非常に少ない。體力が続く限り、1本でも多くの木を植えたい』とよく話していた」という。
事実、遠(yuǎn)山さんと中國(guó)の「縁」は1935年にまで遡ることができる。同年、中國(guó)に留學(xué)した遠(yuǎn)山さんは、農(nóng)耕文化や植物生態(tài)を研究し、36年に研究用にとクブチ砂漠の土地を購(gòu)入した。しかし、日本がその後すぐに中國(guó)侵略戦爭(zhēng)を起こしたため、遠(yuǎn)山さんの計(jì)畫(huà)はもろくも崩れてしまった。
石田理事によると、遠(yuǎn)山さんは戦爭(zhēng)を二度と起こしてはならず、日中友好を代々引き継いでいかなければならないと考えていた。鳥(niǎo)取大學(xué)で定年を迎えた遠(yuǎn)山さんは、老後の生活全てを中國(guó)における砂漠緑化事業(yè)に捧げたという。
植樹(shù)をめぐっては、遠(yuǎn)山さんには、樹(shù)を植える時(shí)の穴の深さや大きさ、苗と苗の距離、土のかたさなどの自分なりの科學(xué)的理論があり、ボランティアにそれを詳しく伝えて、その通りに行うよう指示していたという。他の人に細(xì)かな指示を出すだけでなく、遠(yuǎn)山さんは自分にも厳しく、1日に10時(shí)間植樹(shù)に従事していたという。
さらに、植樹(shù)を支援するために、鳥(niǎo)取県の不動(dòng)産を売卻したり、日本のテレビ局や大學(xué)、社會(huì)団體などに中國(guó)での植樹(shù)の意義を説明して、資金集めに奔走したりしていたという。
そのような遠(yuǎn)山さんの姿勢(shì)に感銘を受け、石田理事を含むたくさんのボランティアがその遺志を継ぎ、毎年中國(guó)に足を運(yùn)んで植樹(shù)を行っている。そして、緑の木々が中日友好の証となっている。
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