【編集者付記】中日両國(guó)は一衣帯水の関係にあり、様々な分野やレベルで友好協(xié)力関係が全面的に深く発展している。新型コロナウイルス感染癥が猛威を振るった際、中日両國(guó)は相互に援助の手を差し伸べ、共に感染癥と闘い、多くの感動(dòng)的なシーンが生まれた。ポストコロナ時(shí)代を展望し、いかにしてコロナが中日の各分野での交流にもたらした一時(shí)的な影響を克服するのか?いかにして中日の地方間交流推進(jìn)を通じて、両國(guó)の協(xié)力のために新たなチャンスを生み出すのか?日本の各地では、それぞれどんな資源を通じて、中國(guó)各地と雙方の強(qiáng)みによる相互補(bǔ)完を行うことができるのか?こうした視點(diǎn)に立ち、人民網(wǎng)日本株式會(huì)社では「ポストコロナ時(shí)代の中日協(xié)力の新たなチャンス——日本都道府県知事シリーズインタビュー」を企畫(huà)。47都道府県の知事を訪ね、獨(dú)占インタビューを展開(kāi)していく。人民網(wǎng)が伝えた。(文/孫璐、葉習(xí)民、李沐航、呉穎)
11月25日、人民網(wǎng)の取材を受ける平井伸治鳥(niǎo)取県知事(撮影?呉穎)。
知事インタビューの第2弾では、鳥(niǎo)取県にフォーカスする。鳥(niǎo)取県は日本?本州西部の日本海沿岸に位置し、美しい鳥(niǎo)取砂丘、美味しいマグロや松葉ガニなどがあるだけでなく、有名な漫畫(huà)「名探偵コナン」の作者や「ゲゲゲの鬼太郎」の作者も輩出している。また、鳥(niǎo)取県は中國(guó)とも深い縁がある。このほど、鳥(niǎo)取県の平井伸治知事が東京の都道府県會(huì)館で人民網(wǎng)の取材に応じた。
「中日友好の井戸を掘った人」の故郷
インタビューが始まるとすぐに、平井知事は人民網(wǎng)記者に対し、中日友好のために重要な貢獻(xiàn)を果たした鳥(niǎo)取県の有名人2人の名前を挙げた。そのうちの1人は、周恩來(lái)総理から「中日友好の井戸を掘った人」の1人と稱えられた日本の政治家、古井喜實(shí)氏だ。古井氏は1959年に初訪中した後、中日友好関係発展の促進(jìn)をそのライフワークとし、その政治家人生を通して取り組んだという。古井氏は、松村謙三氏や岡崎嘉平太氏など中日友好に熱心な政界?経済界の人々と共に、中日両國(guó)の「中日長(zhǎng)期総合貿(mào)易に関する覚書(shū)」及び「中日雙方の新聞?dòng)浾呓粨Qに関するメモ」など重要な文書(shū)を調(diào)印へと導(dǎo)き、田中角栄首相(當(dāng)時(shí))の訪中に向けて大量の事前準(zhǔn)備作業(yè)を行い、中日國(guó)交正?;?qū)g現(xiàn)させるために多大なる貢獻(xiàn)を果たした。
平井知事は、「當(dāng)時(shí)の特殊な歴史的時(shí)期において、日中両國(guó)間の雰囲気は非常に緊張しており、全ての人が古井氏に賛同したわけではなく、反対する聲も多かったため、古井氏も國(guó)會(huì)議員選挙に落選してしまった。しかし日中友好の推進(jìn)において、彼は非常に信念を持った人物で、日本と中國(guó)が國(guó)交正?;?qū)g現(xiàn)することは、今後のアジアだけでなく世界の平和的発展にとっても非常に必要だと考えていた。そのため、彼は中國(guó)側(cè)と手を攜えて努力し、最終的に1972年に日中國(guó)交正常化を?qū)g現(xiàn)させた。それからすでに半世紀(jì)が過(guò)ぎた現(xiàn)在、古井氏は友好の使者として、中國(guó)政府からも稱賛されている」と紹介。さらに、「東京の日中友好會(huì)館前に建てられている古井氏の胸像を訪れるたびに、両國(guó)國(guó)民の古井氏に対する感謝の気持ちを深く感じることができる」と述べた。
もう1人の中日友好に重要な貢獻(xiàn)を果たした人物は、かつて鳥(niǎo)取大學(xué)で教鞭をとっていた遠(yuǎn)山正瑛教授だ。1935年、當(dāng)時(shí)28歳だった遠(yuǎn)山氏は中國(guó)に留學(xué)した。視察の途中、遠(yuǎn)山氏はゴビ砂漠が農(nóng)地を侵食し、何千萬(wàn)もの人々が飢餓に苦しんでいる様子を見(jiàn)て、大いに心を痛めた。遠(yuǎn)山氏が鳥(niǎo)取大學(xué)を退職した翌年、中日國(guó)交正?;瑢g現(xiàn)。この時(shí)すでに66歳の高齢となっていた遠(yuǎn)山氏だが、數(shù)十年前目にした光景を忘れることができなかった。遠(yuǎn)山氏はすぐさまためらうことなく家財(cái)を処分して1人中國(guó)に渡り、晝間は40度以上になるゴビ砂漠の高溫を克服し、數(shù)ヶ月を費(fèi)やして水源を探した。その後、彼は鳥(niǎo)取砂丘の経験と日本で集めた資金を頼りに、數(shù)年の時(shí)間を費(fèi)やして様々な困難と挫折を乗り越え、最終的に100萬(wàn)本のポプラを植えるという目標(biāo)を立てた。1991年、遠(yuǎn)山氏は「日本沙漠緑化実踐協(xié)會(huì)」を立ち上げ、中國(guó)に植林ボランティアを派遣し始めた。2013年の時(shí)點(diǎn)で、同協(xié)會(huì)は計(jì)11700人のボランティアを派遣し、中國(guó)のゴビ砂漠に373萬(wàn)本の木を植え、2萬(wàn)ヘクタール以上の砂漠をオアシスや農(nóng)地へと変えた。その功績(jī)を稱えるため、中國(guó)政府は1996年に遠(yuǎn)山氏の銅像を建立した。
平井知事は、「これは友好交流の具體的な現(xiàn)れだと思う。個(gè)人の努力を通じて、友情の架け橋を1つずつ架けていった」と稱え、「現(xiàn)在は新型コロナウイルス感染癥との闘いが依然として厳しい狀況だが、日中両國(guó)のビジネス交流再開(kāi)の歩みはしっかりとしている。これを基盤に、雙方が相互に直接交流できる時(shí)代が再びやって來(lái)ることを願(yuàn)っている」と語(yǔ)った。
中日地方交流協(xié)力を著実に推進(jìn)
中日友好に取り組む人々を數(shù)多く生んだ鳥(niǎo)取県は、今では中國(guó)との間でよりいっそう密接な友好交流協(xié)力関係を結(jié)んでいる。同県では、河北省、吉林省と友好関係を結(jié)び、様々な交流協(xié)力を著実に展開(kāi)している。
鳥(niǎo)取県の電子部品産業(yè)は日本で大きな影響力を持っている。この産業(yè)優(yōu)位性を発揮するため、平井知事は2018年に安倍晉三首相(當(dāng)時(shí))の訪中に同行し、「第1回中日第三國(guó)市場(chǎng)協(xié)力フォーラム」に出席した。訪中期間中、平井知事は當(dāng)時(shí)吉林省委員會(huì)副書(shū)記?省長(zhǎng)だった景俊海氏(現(xiàn)?吉林省委員會(huì)書(shū)記)と雙方を代表して協(xié)力覚書(shū)に署名し、鳥(niǎo)取県の企業(yè)と中國(guó)の第一汽車集団などが、EV先進(jìn)運(yùn)転支援システム(ADAS?EV)案件などをめぐって協(xié)力を展開(kāi)することを共同で推進(jìn)したほか、関連人材育成について吉林大學(xué)と協(xié)力覚書(shū)を交わした。當(dāng)時(shí)の狀況を振り返り、平井知事はこんな興味深いエピソードを紹介してくれた。人民大會(huì)堂での挨拶が終わりに近づいた時(shí)、知事が中國(guó)語(yǔ)で「朋友」を歌い始めると、思いがけず歌に合わせて會(huì)場(chǎng)から手拍子が起きたのだという?!袱长螘r(shí)の情景が強(qiáng)く印象に殘っている。日中雙方の人々が緊密に協(xié)力し、一體になれるということを?qū)g感した」と知事は語(yǔ)った。