日本では、ファッションの米國化とは単に米國を偶像視することではなく、米國ファッションに新たな文脈を與えることだった。日本人はこれまで外來文化を受け入れ、変化させ、外に発信してきた。マルクスさんはこれを「道筋の再建」と呼ぶ。日本に定住して10數(shù)年経った頃、マルクスさんは英語の著作「AMETORA(アメトラ)日本がアメリカンスタイルを救った物語 日本人はどのようにメンズファッション文化を創(chuàng)造したのか?」を書き上げ、最近になって「原宿ジーンズ:日本のストリートファッション50年」の題で中國語簡體字版も刊行された。
今から50年前、ボタンダウンシャツ、カジュアルジャケット、細(xì)身のチノパン、柄物のネクタイ……こうしたアイテムを擁する米國のアイビールックが海を渡って日本にやって來た。アパレルメーカー経営者の故?石津謙介氏が創(chuàng)業(yè)した「ヴァンヂャケット(VAN)」は1959年に最初のアイビールックを打ち出し、米國ブランドのブルックス?ブラザーズのカジュアルジャケット第1號を完全復(fù)刻した。その後、64年の東京五輪で石津氏が日本代表チームのためにデザインした紅白のアイビー調(diào)ユニフォームが、熱狂的なアイビーブームを巻き起こした。
60年代が転換點になったのは、主に日本が第二次世界大戦後の10年間で経済復(fù)興を果たし、対外的に開放されていったことによるものだ。海外渡航は自由化されたものの、米國への航空券は片道が65萬円で、新車1臺が買えるほど高額だった當(dāng)時、ヴァンヂャケットは社員8人を米國に送り出し、本物のアイビールックを?qū)懻妞藚Г幛丹护?。しかし実際に行ってみて一行がショックを受けたのは、米國の學(xué)生の標(biāo)準(zhǔn)裝備はTシャツ、短パン、ビーチサンダルで、3つボタンの梳毛織物のジャケットを著ている學(xué)生など全然見かけなかったことだった。だが、そのジャケットは日本人が米國東海岸のキャンパスの標(biāo)準(zhǔn)服だと考えてあこがれていたものだった。やっとのことで、エール大學(xué)に9分丈パンツの學(xué)生がいたが、彼の話を聞くと「ファッションなんて考えたこともない。このパンツは洗っていたら縮んで短くなっただけ」ということで、コーディネートやファッションとは全然関係がなかった。
男性ファッション誌「メンズクラブ」編集部にいたくろすとしゆき氏は、「アイビールックは米國が発祥だが、日本で50年の発展を遂げ、今や『日本の遺伝子』が入っている。ポークカツレツのようなもので、元々はドイツの料理だったが、今やとんかつとして日本料理の一部になった」と総括した。