文學(xué)作品を通して、違う國(guó)や民族の人々やその暮らしぶりを理解することができる。日本にも中國(guó)の戯曲と小説をこつこつと研究し、文學(xué)を通じて日本の人々に中國(guó)を理解してもらおうと努力を重ねる學(xué)者がいる。中央大學(xué)教授の飯塚容氏だ。人民網(wǎng)が伝えた。
中國(guó)文學(xué)との縁
これまでに中國(guó)の作家40人あまりの小説を80作以上翻訳した飯塚氏は、中國(guó)小説の日本語(yǔ)への翻訳で名実ともに「第一人者」だ。中國(guó)文學(xué)を研究?翻訳する道を歩むようになった理由について飯塚氏は、最初は父親である飯塚朗氏の影響だったと振り返る。飯塚朗氏は日本の初期の中國(guó)文學(xué)研究における著名な研究者で、中國(guó)の名作古典「紅樓夢(mèng)」を翻訳し、中國(guó)文學(xué)の日本への紹介において極めて大きく貢獻(xiàn)した。父親の影響もあったからか、飯塚氏は東京都立大學(xué)に進(jìn)學(xué)した。都立大では、父親と同時(shí)代の著名な中國(guó)文學(xué)研究者である竹內(nèi)好氏や松枝茂夫氏もかつて教鞭を執(zhí)っていた。飯塚氏は同大で中國(guó)文學(xué)を系統(tǒng)的に學(xué)び、將來(lái)中國(guó)文學(xué)の研究?翻訳の道を歩むための基礎(chǔ)を固めた。
中國(guó)で開放改革が始まると、多くの若い作家が頭角を現(xiàn)した。そして1987年、日本で文蕓誌「季刊中國(guó)現(xiàn)代小説」が創(chuàng)刊され、中國(guó)の作家の新しい作品を常時(shí)掲載するようになった。しばらくして飯塚氏も編集?翻訳のグループに參加するようになった。このことはその後、中國(guó)文學(xué)の翻訳を本格的に行うようになる上で極めて大きな影響を與えた。飯塚氏は同誌に文章を発表するため、中國(guó)の作家の作品を集中的に、大量に読んでいった。
その間、飯塚氏は同年代の中國(guó)人作家の余華氏と知り合った。余華氏の1989年に出版された初めての中短編小説集を読んだ飯塚氏は、深い感銘を受け、小説「十八歳出門遠(yuǎn)行(日本語(yǔ)題:十八歳の旅立ち)」を翻訳した。雑誌に発表するため、飯塚氏は當(dāng)時(shí)はまだ無(wú)名だった余華氏に手紙を書いて許可を求めた。こうして飯塚氏と余華氏は厚い友情を結(jié)ぶことになった。數(shù)年後、余華氏は飯塚氏に會(huì)った際、「飯塚さんは初めて自分の作品を海外に紹介してくれた翻訳家だ」と感慨を込めて語(yǔ)ったという。
「中國(guó)文學(xué)は難しくない」
飯塚氏は、中國(guó)の友人、特に若い世代の友人は日本文化に高い関心を抱き、文學(xué)だけでなく、漫畫やアニメなど各方面に興味を広げているが、日本の人々は中國(guó)文化、とりわけ文學(xué)分野に対して、それと同じくらいの関心を持っているとは言い難いと感じるという。この問(wèn)題を解決するには、作家同士の交流を強(qiáng)化する必要があると飯塚氏は考えている。
また、飯塚氏は教員としての経験の中で、日本の學(xué)生の多くが「中國(guó)文學(xué)は難しくて理解できない」という先入観を持っていることに気づいた。そこで、飯塚氏の提案により、中央大學(xué)図書館では作品に觸れることのできる「文庫(kù)で読める中國(guó)現(xiàn)代文學(xué)の名作」コーナーが設(shè)置された。飯塚氏は、このコーナーを通じて日本の學(xué)生に「中國(guó)文學(xué)は難しくない。面白い作品がいろいろある」ことを知ってもらいたいという。
飯塚氏は、ここ數(shù)年、中國(guó)のSF小説が日本の若い読者をますます多く引き付けるようになったことにも注目している?!溉w」の作者の劉慈欣氏が高い人気を得ているほか、郝景芳氏などの若い作家も作品が次々に日本語(yǔ)に翻訳され、読者の関心は高い。
長(zhǎng)い歴史がある中日演劇文化交流
飯塚氏の研究テーマには、中日演劇交流史、特に中國(guó)近代の話?。ㄐ聞。─碎vする交流史も含まれる。飯塚氏によると、明治時(shí)代(1868-1912年)後期から大正時(shí)代(1912-1926年)中期にかけて、大勢(shì)の中國(guó)人留學(xué)生が日本にやって來(lái)た。その中には日本の近代演劇の影響を受けた演劇好きな中國(guó)人留學(xué)生もいて、演劇公演をするようになり、こうして中國(guó)話劇が誕生した。それから1930年に入るまで、中國(guó)人留學(xué)生が続々來(lái)日して、東京で演劇活動(dòng)をするようになった。原作の元々の水準(zhǔn)が高いので、演劇として上演しても素晴らしい作品となり、中日文化交流の歴史に大きな足跡を殘したという。
飯塚氏が中國(guó)の話劇を?qū)g際に初めて見たのは1980年代のことで、北京人民蕓術(shù)劇院の來(lái)日公演だった。話劇の発展の歴史を振り返ると、中國(guó)と日本の間には長(zhǎng)い文化交流の歴史があり、両國(guó)の文化交流の絆がしっかり結(jié)ばれていることを感じるという。
將來(lái)への期待 「青は藍(lán)より出でて藍(lán)よりも青し」
中國(guó)と日本は一衣帯水の隣國(guó)で、文化交流の歴史は非常に長(zhǎng)い。飯塚氏は、「小説の中にはいろいろな歴史背景があり、中國(guó)のいろいろな地方の生活風(fēng)景がある。中國(guó)人のものの見方や考え方も理解することができる。そういう中で、中國(guó)にはこういう面もあったのか、こういう歴史があったのかという、日本とは違う側(cè)面を発見することができる。逆に、中國(guó)の人たちも日本人と同じようなことを考え、同じように生活をしていることを発見することも大事だと思う。その両方が大事だということを常に言っている」と語(yǔ)る。そして、中國(guó)文學(xué)を研究し、中國(guó)の小説を翻訳することで、より多くの日本人に中國(guó)を理解してもらい、中日の悠久の文化交流の歴史を次の世代へ伝えていきたいという。
飯塚氏は贈(zèng)る言葉として「青は藍(lán)より出でて藍(lán)よりも青し」という中國(guó)のことわざを挙げ、その理由として、「この言葉に『父の世代や父の教え子の世代を受け継ぎ、また乗り越えていきたい。それと同時(shí)に、次の世代、私より若い世代の研究者と翻訳者もそうであってほしい』という願(yuàn)いを込めた」と語(yǔ)った。
(編集KS)
「人民網(wǎng)日本語(yǔ)版」2023年7月3日