特攻隊(duì)員時(shí)代の寫真を手にする巖井氏。 |
立命館大學(xué)名譽(yù)教授で滋賀県大津市在住の巖井忠熊氏(91)は、大量の爆薬を積んで敵艦に體當(dāng)たりする第2次大戦時(shí)の日本軍特攻艇「震洋」の搭乗員だった。巖井氏はこのほど取材に、第2次大戦時(shí)の自らの経験を振り返り「特攻は高尚な事ではない」と語った。共同通信の13日付報(bào)道を中國新聞網(wǎng)が伝えた。
共同通信によると、「なぜ日本はあんな戦爭(zhēng)をしたのか」と巖井氏は戦後69年間考え続けている。巖井氏は京都大學(xué)文學(xué)部在學(xué)中の1943年12月、神奈川県橫須賀市の海兵団に入った。10カ月後、「特殊な攻撃兵器が開発された」と聞いて、多くの友人が選んだ特攻隊(duì)に志願(yuàn)した。目的地も知らぬまま、「人間魚雷」で有名な長(zhǎng)崎県川棚町の「魚雷艇訓(xùn)練所」に送られた。
共同通信によると、巖井氏らは1945年3月、米軍の沖縄上陸を阻止するため、出撃命令を受けた。軍の命令は絶対であり、みな死ぬことが何を意味するのかさえ分かっていなかった。彼らは「死ななければならないのなら、最後の瞬間に敵に打撃を與える」との考え方を教え込まれ、震洋を積んだ輸送船に乗って石垣島へ出発した。輸送船は奄美大島沖で米軍の魚雷攻撃を受けた。巖井氏らは海に投げ出され、波が荒れ狂う夜の海を約3時(shí)間漂流した後、救出された。助かったのは隊(duì)員187人中、わずか45人だった。これによって部隊(duì)は解散。巖井氏はその後震洋には乗らず、教官として特攻隊(duì)員を養(yǎng)成した。
戦後復(fù)學(xué)した巖井氏は、日本が戦爭(zhēng)を発動(dòng)した理由を知るために近代史の研究を始めた?!复螭蕬楣驋い菠胜盲刻毓リ?duì)で、多くの戦友が亡くなった」。巖井氏は、かつて殉國の「大義」と考えていたものが、実は虛構(gòu)に過ぎなかったことに気づいた。生存者として、講演活動(dòng)に參加するようになった。
巖井氏は特攻隊(duì)員を題材にした小説や映畫が最近もてはやされていることに懸念を表明?!袱猡窇闋?zhēng)が起きれば、自衛(wèi)隊(duì)員だけでは足りず、徴兵制が施行されるはずだ。今の若者は自分とは無関係と考えているようだ」と語った。(編集NA)
「人民網(wǎng)日本語版」2014年8月14日
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