日本に行ったことのある人なら分かるだろうが、日本ではいたるところで漢字を見かけることができ、親しみを感じる。このためか、一部の人は「中國と日本は使用言語も人種も同じだから、簡(jiǎn)単に相互理解できる」という錯(cuò)覚を覚える。しかし、日本で數(shù)年間にわたって仕事するうちに、真実の日本を知るのはそれほど簡(jiǎn)単ではないことに気づいた。
周りの親戚や友人など、日本に旅行に訪れた人は、中國に戻ると口々に「日本はきれいで清潔だ、品物の質(zhì)が良い、日本人は禮儀正しい」と絶賛する。日本に滯在中、私は「日本に観光に訪れた中國人は皆、日本がいい國だと感じる」という言葉を聞いた。
毎回このような感想を耳にすると、私は「1回旅行しただけで、真実の日本が理解できるのだろうか」と考える。目に見えるものだけが真実とは限らない。
東日本大震災(zāi)から1年が過ぎた2012年3月11日、私は宮城県女川町に赴き、水産加工會(huì)社「佐藤水産」の佐藤充専務(wù)の家族を取材した。佐藤専務(wù)は地震の際、中國人実習(xí)生15人の命を救ったが、自らは津波の犠牲になった。彼は中國人にとっての英雄だ。しかし、その英雄の故郷を訪れた私は、目の前に広がる光景に心が痛んだ。震災(zāi)から1年が過ぎたにも拘わらず、道路は依然として完全に修復(fù)されていなかった。津波の被害を受けた都市には瓦礫が散亂し、建物の殘骸が傾いたまま放置され、荒涼たる光景が広がっていた。2013年になり、震災(zāi)から2年が過ぎても、福島原発事故による放射性物質(zhì)汚染の除去作業(yè)は遅々として進(jìn)まなかった。その原因は、各市町村が互いに責(zé)任を押し付け合い、どこも汚染された土壌を受け入れたがらないためだ。最新の統(tǒng)計(jì)によると、震災(zāi)から4年目となる今年3月11日の時(shí)點(diǎn)で、被災(zāi)地では依然として約23萬人が避難生活を送っている。こういった狀況は中國では考えがたい。我々中國人は大災(zāi)害が発生した場(chǎng)合、「一方に困難あれば八方から支援あり」の精神を発揚(yáng)する。四川大地震後の再建が良い例だ。
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